2010年08月22日

177

 出場9カンパニーが持ち時間各15分で競い合った「教文短編演劇祭2010」(札幌市教育文化会館小ホール)で、私にとって最も刺激的だったのは、8月21日(土)の予選2日目に敗退したTBGS(THE BIRDiAN GONE STAZZIC.)の3人芝居「117」(作・演出ミヤザキカヅヒサ)だ。この芝居は、作品自体が一つの貴重な「発見」だと思う。見終えた後、緻密な構成で切れ味鋭い短編小説、あるいは短い語句で真実の深遠を観照させる一編の詩を読んだような感慨にふけった。以下、独断と偏愛に満ちた劇評を−。
 芝居は、タビトという男がこの世に生まれ落ちてから大学まで進学し、就職、結婚して男児に恵まれ、60歳で会社を無事定年退職し、最愛の妻に先立たれ、やがて死ぬまでの80年間の生涯を、1年間を10秒刻みの一場面にして次々描いていく斬新な作劇(当日配布のパンフレットによると、合計13分20秒)。と、一口に全体像を説明しても、見ていない方には分かりづらいかと思うのだが…。
 小道具は、椅子などとして使われる小箱1箱と、遺影などになる板1枚という素舞台。劇場内には絶えず時報が「ピ、ピ、ピ、ピ、ピ…」と流れている(ミヤザキによると、題名の「117」は時刻を案内する電話番号からの命名)。そして10秒ごとに「何時何分何秒」という案内の代わりに、「8歳」とか「75歳」、「45歳」、「3歳」、「28歳」、「38歳」、「60歳」などと、時間的に後先のばらばらな年齢がアナウンスされる。
 この10秒間のうちに、タビトを演ずる1人の男優と、彼の両親や息子夫婦、友人や会社の同僚を演ずる男女各1人の役者が、緩急のついた動きと短いセンテンスの的確な台詞で、タビトという男と彼を取り巻く家族らの一刻一瞬を次々に照らし出していく。
 例えば、「74歳」で息子夫婦に心配されながらよぼよぼ歩いているタビトが10秒後、「1歳」というアナウンスがあった瞬間から、両親に祝福されながら、たどたどしくよちよち歩きを始めた子どもになる(以下、年齢とそれに伴うエピソードの数々は、あくまで私の記憶と、私が勝手に膨らませているだろう印象によるもので、必ずしも実際に上演されたものとは違う場合が多い、はず)。そしてまた10秒後に「76歳」とアナウンスがあり、息子夫婦に心配されている老人のよぼよぼ歩きになる、といった具合。相手役2人の年齢や役柄はいちいち明示されないが、タビトが変化するのに応じて変わっていることは、芝居を見ていれば容易に分かるはずだ。
 だから、中学校を卒業した「15歳」のタビトが、10秒後には、高校を卒業する「18歳」のタビトになるし、大学を中退して音楽で食っていくと突如言い始めた息子をいさめる「50歳」の中年タビトが、10秒後には、大学を中退してギターで食っていくと家族に自信満々で決意を述べる「21歳」の青年タビトになる。「結婚してください」と女性に手を差し伸べてプロポーズする「25歳」のタビトは、10秒後には「26歳」になり、めでたくその女性と握手がかなってゴールインする。そしてタビトが何歳だったか(失念)の折の、孫の喜ばしい誕生の場面が、10秒後には、タビト自身の誕生の場面になる。
 そうかと思えば、ソープランドとおぼしき場所で(これももちろんマイムだけでの時空の表現)、椅子に腰掛けて恥じらいながら「こういう場所に来るの、初めてなんです」と、隣で腰を屈めて石鹸を泡立てているソープ嬢に告白する「23歳」の純朴タビトが、10秒後に、両者まったく同じ姿勢で、「君、この店で働いて長いの?」「いえ、きょうが初めてなんです」なんて、いかにも場慣れした常連客になっていて、入店したてのソープ嬢と会話を交わす「33歳」の助平タビトになったりもする。役者の動きと台詞にめりはりが利いているばかりでなく、遊び心もいっぱいなのだ。
 こうして舞台に立ち現れるのは、自然な編年体で描かれるタビトの人生ではなく、いったん10秒=1年ごとに細かく切り刻まれた後(解体)、後先はばらばらで行ったり来たりしながら、まるでジグソーパズルの一片一片を組むように入念、周到、繊細に計算され、構成し直されて現前化し、始めはおぼろげながらも見る者の心の内に確かに像を結んでくる(再構築)タビトという1人の男の、ある意味、平凡と言えば平凡な80年の人生だ。
 だが、10秒ごとにタビトと、彼を取り巻く家族ら他者が刻々と変わっていく、その変化のなんともリズミカルで小気味の良いこと!
 この知的で斬新な演劇的手法の採用で、平凡な人生こそ非凡で素晴らしいものに思えてくるから、不思議で、素敵だ。
 見ていた私はいつしか想像力=創造力がえらく刺激され、思いが深くへ遠くへとさまざまに飛躍していた。本当に貴重で、ありがたい演劇的体験だった。
 そう、「光陰矢のごとし」の言葉通りに、時の移ろいは人知を超えていかんともしがたく速い、そして人生はいかにも儚く、それゆえにこそ掛け替えがなく、どこまでも限りなく愛おしいものであるか!
 この芝居で採用された手法は映画や小説などでは難しく(私が見た数時間後に連想したのは、唯一、フランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールが「気狂いピエロ」の一場面、ジャン=ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナがマンションから抜け出して車で逃走するシーンで使った、なんとなく雰囲気の近い“文法破壊”のカット割りだ。ご興味のある方はビデオやDVDをレンタルするなどして見てみていただきたい。だが「117」は何歳の次に何歳がくればより劇的に効果的に見る人の心に響くか、などにも細かく心を配っていることが感じられ、全編この手法を貫き通したという意味合いで、「気狂いピエロ」のその試みをもはるかに凌駕しているとあえて言いたい)、これこそまさに時間と空間の制約を超越して、過去と現在、未来を、それに、こことそことあそこを自由自在に行き交える「演劇」ならではの手法を実に巧みに活用した、前衛的かつ実験的、そしてなにより意欲的な作品だった。
 この知的で斬新な演劇的企みに満ちた作品を、これまで200本以上の芝居の演出を手がけ、日本演出者協会副理事長で同協会主催の若手演出家コンクール審査員を務めておられる、今演劇祭のゲスト審査員流山児祥氏ならば、いったいいかなる評価をされただろうか。ぜひとも聞きたかった。
 追伸・ミヤザキくんへ。持ち時間15分というこの、いかにも「短編演劇」という「枠」あるいは「制約」を逆手にとって最大限生かし切った作品を、いつかどこかで、なんらかの折、機会に、ぜひ再演してください。お願いします。私自身もいま一度見て心に焼き付けたいし、今回は都合があって見られなかった多くの演劇ファンにも広く見てもらう価値のある作品だと、私は確信しています。
 そして、この作品をつくることで得ただろう確かな手応えと、この革新的な手法を“伝家の宝刀”に、これからも新たな芝居づくりに突き進んでください。私は、じっくりたっぷり期待して待っています。
posted by Kato at 20:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
おつかれさまです。ところで、「500日のサマー」という映画はご覧になっていますか? ある青年が「サマー」という女性に出会い、つき合い、別れるまでの500日間をバラバラに並べた映画です。小品ですが青春映画として粋に作られておりお勧めです。ちょうどDVDレンタルが始まったあたりなのでご一見されては?
Posted by よしお at 2010年08月23日 07:50
演劇では、柴幸男氏の『あゆみ』と発想が似ていると思います。『あゆみ』は一人の女性の人生を、複数の女優が演じます。『あゆみ』は「教文短編演劇祭2010」の優勝チームに出場権が与えられる長久手演劇王国「劇王」で2008年初演され、その後長編化されました。次回はあいちトリエンナーレで上演されます。この作品が『あゆみ』にインスパイアされたものなのか、気になるところです。
http://ayumi2010.exblog.jp/i2/
Posted by 荻野達也 at 2010年08月27日 11:52
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