2015年02月28日

劇団アトリエ・バトルシアターvol.1

 劇団アトリエ・バトルシアターvol.1を2月28日(土)、札幌・ブロックで見た。劇団アトリエ代表の小佐部明広が常々、自分の脚本をたくさん上演したいと思っていたため、2団体ともに小佐部の脚本を使って上演する、という珍しい形のバトル。演劇の場合は脚本だが、自分が好きで好きでいつでも携わっていたくてたまらないことに自分自身の一つしかない身体が追いついていかないってこと、あるよね。きっとそんな感じだと思うな。
 きょうはこれから出かけなければならないので詳しい劇評は後日書くことにして、見た順にさわりだけを紹介する。
 劇団ロクデナシ「リベンジ・シスターズ!」は演出加納絵里香。小樽桜陽高校演劇部、北翔大学舞台芸術学科出身がくとが立ち上げた。
金持ちの父が死んだ。長女の経営する喫茶店に集う三姉妹。長女は父の援助に依存していた。次女は男を知らなかった。三女は学歴が低かった。おんな達にたかる男たち。金持ち。音楽家。作家。こいつらが私たちを駄目にする。私たち、なんでこんなに不幸なのォオオオオ!!!
ロクデナシ版というか小佐部版というかの「三人姉妹」(チェーホフ)と「鈍獣」(宮藤官九郎)を足して2で割った感じ。後味は悪くない。
劇団アトリエ「メシアの蟻地獄」は演出小佐部。
本宮彩乃(もとみやあやの)が経営している喫茶店は、経営状態が悪化していた。そこで、以前高校のクラス会で再会した、経営コンサルタントの戸川友洋(とがわともひろ)に、相談することになる。友洋のアドバイスで経営状態は改善していくが、そのときから彩乃が蟻地獄にはまっていたなどということは、彩乃自身はまだ知らない……。
人(観客)の神経を逆なでして、かさぶたをはがして軽石でごしごしこするような芝居。人によって後味は悪いかもしれないけれど、僕はこういうのがたまらなく大好きだ。
きょう28日、これから見られる時間としては、アトリエが20時開演、楽日3月1日(日)はアトリエが11時と17時、ロクデナシが14時開演。お薦めです。
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2015年02月27日

芝居

 札幌座「芝居」(原作サミュエル・ベケット=1964年、翻訳安堂信也・高橋康也、構成・演出すがの公)を2月25日(水)、札幌・シアターZOOで見た。
 舞台の前面、中央に、同じ形の灰色の壺が三つ、お互いにくっついて並んでいる。それぞれの壺から、壺の口に首をぐっとしめられた格好で、顔が一つずつ突き出ている。客席から見て、左から右へ、女2(坂本祐以)・男(彦素由幸)・女1(高子未来)の順である。芝居のあいだずっと、どの顔もじっと正面を向きつづける。年齢かっこうも顔だちも判じがたく、まるで壺の一部と化しているかのような顔である。しかし仮面はつけていない(S・ベケット「芝居」舞台設定より)。
 1969年にノーベル文学賞を受賞したベケットと言えば、不条理演劇の第一人者。代表作「ゴドーを待ちながら」(52年)は僕も故緒形拳さんと串田和美さんのコンビのものなど、3回ほど見ている。不条理演劇特有のある種の「わからなさ」を自分なりに勝手に咀嚼しつつ、くふふ、むむむ、てへへという小声での笑いをぐっと噛み殺しながら。
 で、今回の「芝居」。これはもっとわからなかった。わからないんだけれど、きっとなにかあるんだなと思いながら。登場するのは浮気男と妻と愛人。どうやら3人とも死んだ後らしく、生きていた時の恨みつらみをてんでんばらばらに話しているらしい。これは僕にとっては状況的につらい。せめて死んだ後は、平穏にのほほんと死んでいたい。見ているうちにそんなことを考えていたら、病後の「日々すべてリハビリ」と言い聞かせつつ送っている自分の生活が重なり合ってきて、妙に切迫した芝居を見ている心境になった。人ごととは思えなくなってきた。身につまされた。
 公演チラシに演出のハム(すがの公)が「滑稽で無駄で贅沢な時間を味わわされる娯楽というのは、なかなか無いと思います」と書いているが、全くその通りだと思う。「滑稽で無駄で贅沢」。それは「ゴドー」を見た時に僕が抱いた感情とほぼ同じものだ。反対語として、いま思いついたのが「生真面目で有益で質素」。そんな生活をしていて、人生いったいなんの楽しみがあるというのだろう(それらの価値観を重視して生きていらっしゃる方にはごめんなさい)。そんなことを考えたら、存在意義が薄まりつつある現代人の姿と孤独感を斬新なスタイルで描き、とかく難解とされるベケットは、実は逆説的に人生いかに生きるべきかを真摯に問い続けた作家であるように思えてきた。観客としては「わからなさ」を「わからない」ままに、心を開いて受け止め、生きる、生き抜く。
 なんて書くと、なんだか人生にもろもろのありがたい言葉をつづった相田みつをさんのようですが、方法論は真逆です。でも、この「芝居」、あとになってボディーブローのように効いてくるなあ。
 照明の市川薫、大変な手仕事、もう一日、頑張って。
 楽日28日(土)は14・18時開演。
 ちなみにこの「芝居」、実験演劇集団「風蝕異人街」が4月11日(土)、12日(日)に本拠地・アトリエ阿呆船で上演します。札幌座のハムは正攻法での演出だったけれど、風蝕のこしばさんはきっとあの手この手の搦め手でくるだろうな。そんな見比べも楽しみです。
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2015年02月13日

希望の大地の戯曲「北海道戯曲賞」受賞作品リーディング公演

 希望の大地の戯曲「北海道戯曲賞」受賞作品リーディング公演(演出前田司郎=五反田団主宰)を2月12日(木)、札幌・かでる2.7ホールで見た。
 全国から応募のあった58作品から2014年11月25日の第1次審査で7作品が選ばれ、前田司郎、長田育恵(演劇ユニットてがみ座主宰)、斎藤歩(札幌座チーフディレクター)、土田英生(MONO代表)、畑澤聖悟(劇団渡辺源四郎商店主宰)の5氏による14年12月23日の第2次審査で、大賞「悪い天気」(作藤原達郎=福岡)、優秀賞「乗組員」(作島田佳代=鹿児島)が選ばれた。
 この日はまず、第1次審査通過作品「あなたとのもの語り」(作粟飯原ほのか=神奈川)が小林エレキと三木美智代により15分上演された(13日は同「終末の予定」(作福谷圭祐=大阪)が15分上演されたはず=僕は見ていない)。
 「乗組員」は三木(ト書き朗読)、櫻井保一、柴田知佳、小島達子、小山佳祐、深浦祐太が出演。南の島を舞台にした幻想的ともいえる静かな、それでいて一瞬はっとさせる物語で、僕は今村昌平監督の名作映画「神々の深き欲望」(1968年)を思い出したりもした。
 「悪い天気」はエレキと生水絵理、江田由紀浩が出演。男女のずれた会話、振る舞いの応酬に、第三者の男という非日常がぬっと顔を出してかき回す劇作は、僕が大好きな“不条理演劇の第一人者”別役実の世界観をも感じさせて、とても面白く見た。
 第1次審査通過作品には、イトウワカナ「薄暮(haku-bo)」、戸塚直人「私の父」と、僕もよく知る北海道在住者の2作品も残っていたが、惜しくも賞には漏れた。今後もこの賞が続くようなら、北海道の演劇人に期待したい。
 「悪い天気」は2016年の1月以降に、前田司郎の演出で本公演が行われる予定だ。どう熟成するか楽しみに待つ。
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2015年02月11日

蟹と彼女と隣の日本人

 札幌座「蟹と彼女と隣の日本人」(作・演出・音楽斎藤歩)を2月8日(日)、札幌・シアターZOOで見た。
 ススキノのはずれにある中華料理店でアルバイトの韓国人の若者(チョン・ヨンジュン=劇団青羽)が店番をしながらスープカレーを煮込んでいると、宅配便の荷物が届く。開けてみると、大きな活きたタラバガニ。しかし彼の不注意からタラバガニが逃げてしまう。日本人と韓国人の若者たちや、店主の中年日本人女性(宮田圭子)が大騒ぎをしているところへ、怪しげな韓国語を話す日本人の男(木村洋次)が、茹でたてのタラバガニを持って現れた…。出演はほかに佐藤健一、高子未来、チョ・アラ(フリー)。
 初演は2009年、札幌座の前身であるTPSと韓国の劇団青羽(チョンウ)との提携公演「蟹と無言歌」として、脚本斎藤歩、演出キム・カンボ=劇団青羽代表というコラボ(同年11月に劇評執筆)。再演は11年、斎藤、キムの作、演出コンビこそ一緒だが、TPS・劇団青羽共同制作「蟹と彼女と隣の日本人」として内容・題名改訂の上で上演された(同年6月に劇評執筆)。
 そして3演目となる今回は作・演出・音楽とも斎藤が手がけ、題名は再演と一緒だが、終幕ががらりと変わった。まるで別の芝居を見たような気がした。そしてそれは、いまならばそうだろうな、そうとしかできないかもしれないな、という切羽詰まった祈りの時と場だったように感じる。だから「初演、再演を見たからもういいや」というのではなく、みたび劇場に足をお運びいただきたいと願う。
 それはひとえに、現在の日韓関係をかんがみて、変えざるを得なかったのだと思う。斎藤は宣伝用パンフレットに「楽観的な希望は当事者同士には、くっきり見えているのです」と書いているが、11年の再演からの4年間で、日本と韓国との付き合い方は国レベルではすっかり変わったと言わざるを得ない面がある(個人的な付き合い方は不変であっても)。それを反映しての改作である。
 斎藤においては、相当にいろいろな感情、あるいは反響を事前に予測し、あるいは織り込んでの、苦心いっぱいの作劇であったろうと思う。これからの日韓関係に、国レベルとしては難しい諸事情が横たわりながらも、日本人と韓国人との個々人の付き合い方において、ある種の希望と祈りを託しての“新作的3演目”だったと思う。そして完成した芝居は、札幌という一地方都市からのささやかだが国際的な発信としては、いま望みうる最上級のものであったように僕は評価する。
 演劇、舞台芸術は、その高い志によっては、優れたジャーナリズムでもあることを如実に示した力作だと感じた。
 札幌演劇シーズン2015冬については http://s-e-season.com/ をご覧ください。
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2015年02月04日

劇団千年王國「ローザ・ルクセンブルク」を推す

 劇団千年王國「ローザ・ルクセンブルク」(作・演出橋口幸絵=2013年初演、札幌・サンピアザ劇場)は2月1日(日)に見て、感動の過ぎる余り言葉が出ずに淡泊な劇評をアップしてから、日増しに思うところがふつふつと募り、もうどうしようもないほど沸き立ってきており、千秋楽2月7日(土)にも高校時代からのガールフレンドを誘って見るので(予約済み)、彼女の感想も取り入れながら、もういちど僕なりのもっと踏み込んだ、時代情勢をも織り込んだ劇評というか、文章を書くつもりです。で、僕が15年近く見続けてきて、この作品でこれだけの成果を上げたと僕が思っている橋口ならびに千年王國に、終演後、おせっかいにも一つの提案をしたいとも思っています。
 未見の人には本当に訴えたい。
 「これは宮崎県出身の劇作・演出家橋口幸絵が、いまひとときの住まいにしている北海道・札幌で(あるいは永住するかもしれないけれど、僕は橋口には札幌を拠点にするんでもしないでも、公演で世界を飛び回ってほしい。橋口ならできるように思う)、ローザ・ルクセンブルクという一人の情熱的で、かつ命を大切にする革命家の女性を主人公に、全世界のなんびとをもの幸いを祈って心を込めて織り上げた叙事詩であり、橋口版『銀河鉄道の夜』ですよ」
 公演はあと3日(千秋楽の7日・土曜日は前売り売り切れで、少しだけ当日券が出るかもしれません)。
 「その日はあいにくデートなんだよなあ」という方は、デートの第1段階で彼もしくは彼女と見てからお食事してください。きっと、いつもより話がはずみます。そして、手を握るまでしかできなかった人は、別れ際にそっと頬に手を添えるまでになるかもしれない…。目の前にいる、いま、好きな人を、それまで以上に愛おしく、大切に思えるようになる、深く大きな意味での、これは「ラブストーリー」です(30年前、僕が大学生のころは、彼女と話をするのが緊張ものなので、まずは芝居か映画で2時間つぶしながら、その後のスケジュールを考えたものです)。
 本公演は札幌演劇界の伝説になる一作だと確信しています。僕は真剣にそう思っています。
 札幌演劇シーズン2015冬については http://s-e-season.com/ をご覧ください。
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2015年02月01日

ローザ・ルクセンブルク

 劇団千年王國「ローザ・ルクセンブルク」(作・演出橋口幸絵=2013年初演、作曲・馬頭琴演奏・喉歌嵯峨治彦、振付東海林靖志・櫻井ひろ・河野千晶)を2月1日(日)、札幌・サンピアザ劇場で見た。
 ローザ・ルクセンブルク(1871=一説には1870〜1919年)はユダヤ人材木商の娘としてポーランドに生まれドイツで活動した、マルクス主義の政治理論家、哲学者、革命家。片足が不自由というハンディを負っている。本作はその評伝芝居だ。
 そしてなにより今、母親になって我が子が生きていく社会のあり方に思考を深め、いっそう物申していかざるを得なくなった橋口の、かなしく美しく気高い決意表明でもある。
 2013年の初演から出演者4人が変わった(新たに三木悠史、山口健太、小田川奈央、平野琴音が配役)ほかは、大変わりしたところはない。
 ローザ役を年代により千年の女優4人、坂本祐以(1886年〜)、堤沙織(98〜)、榮田佳子(1913〜)、村上水緒(17〜19年)が演じ分けるユニークな趣向も、演じる年代と個性がぴったりマッチし、演劇的効果抜群。初演時からすでに社会派エンターテインメントとしての一つの到達点、完成形に達していたということだろう。
 初演劇評を2013年11月22日に書いている。読み直しても自分ながらに過不足なく書いていると思うし、いまはただ黙して場面場面を思い出し、願ってもない早い再演の余韻に浸っていたいのか、あまり新たな言葉も浮かんでこない。人間、うれし過ぎる出来事に出会うと、そういうものなのかもしれない。
 言葉をよすがに生きている新聞記者としては幼いこと拙いことこの上ないのだが、僕などはとにかく「素晴らしい」のたった一言に尽きてしまうのである。
 かなしく、愛おしく、美しく、かけがえのない一人の女性革命家の生の夢。それを歌とダンスと生演奏で華麗に彩って仕上げ、札幌、ひいては北海道随一かと思われる贅をこらした心根的な、ほどよいけれんみの効いた演出でもって一気に見せ尽くす舞台である。観客は一瞬一瞬に息をのみ、目を凝らし、やがて感動のあまりにため息をつくという形容も大げさではないだろう。
 ただ、きょう、耽美なエンターテインメントに浸っていたい一方で、時同じくしていろいろと考えてしまうのだが、中東では捕らわれの身だった日本人男性が殺害されてしまったようだ。本当に日本は、世界はどうなっていくのだろう。僕たちはローザが後の世に託した命のバトンの意味を一人一人が考えていかなければいけないようだ。
 どうやら、本当に、命のバトンは託されたようなのだから。
 札幌演劇シーズン2015冬については http://s-e-season.com/ をご覧ください。
posted by Kato at 21:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする