2014年09月30日

学生ダイアリー'14

 劇団アトリエ「学生ダイアリー'14」(脚本・演出小佐部明広)を9月14日(日)、札幌・シアターZOOで見た。
 夏。札幌のとある大学のサークル会館。イベントサークル「寿」では、サークル主催の祭を目前に控え会議が行われている。外からはセミの声、そしてなにかのデモの声がきこえてくる。ささやかれる戦争の噂。そして漂う重苦しい空気。今井由紀(山木眞綾)。20歳。大学2年生、一人暮らし。イベントサークル「寿」でリーダーをやっているが、あまり頼られていない。特技なし。特徴なし。恋人なし。趣味、空想。「ゆきりんの勇気リンリン妄想記」というブログを書いている。それが人生で一番楽しい時。誰かが人生を変えてくれるのを待っている。これは、8月3日から15日までの13日間のできごと。
 2012年5月初演の「学生ダイアリー」の改訂再演(12年5月26日に記載)。
 初演時には連想しなかったが、今回は異世代交流サークルの悲喜劇を描いたyhs「95(キュー・ゴー)」(脚本・演出南参、05年初演、08年再演)を思い出した。どちらもサークルの部室、部屋が舞台で、今回の「学生−」も部室を念入りに建て込んでいたからかもしれない(初演時は劇場の舞台部分がそのまま部屋だった)。
 「95」の時代設定は南参が多感な高校生だった1995年。エピソードに阪神淡路大震災やオウム真理教の地下鉄サリン事件などが出てくる。一方、本作の背景は北朝鮮のミサイル開発問題や日本の集団的自衛権の行使容認、イスラエル対パレスチナなど、まさに現在。両方の作品とも、大状況が多かれ少なかれ、年代を問わず個人の心の持ち方に反映することがわかる。
 それにしてもこの約20年で一番変わったのは、パソコンやスマートフォン、携帯電話が人の生き方にまで影響を与えるようになったことではないか。本作が描く集団と個のあり方、孤独、閉塞感などは、むしろそうしたデジタル機器によるものが大きいように思える。携帯電話がなかったころのことを覚えている人も少なくなっただろうが、「ああ、携帯電話のようなものがあって、彼女にすぐに連絡ができたらなあ」と想像していた不自由さがあったころの方が精神的には健全だったとさえ思える。
 出演は男優が小山佳祐(劇団アトリエ)ら4人、女優が柴田知佳(同)ら5人。僕が見た初日初回は、男優陣がちょっと上ずっていた気がする。言い換えれば、演技するということに自意識過剰になっていたというか。演出の意図ならば仕方がないが、そういう芝居を見ると、僕は客席でちょっと気恥ずかしさを覚える。自意識過剰が感染するというか、そんな感じだ。むしろ堂々と観客をのみ込んでほしいと思うのだ。
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2014年09月20日

深爪に愛。

 劇団パーソンズ「深爪に愛。」(作・演出畠山由貴)を9月20日(土)、札幌・シアターZOOで見た。
 舞台は今から50年後の日本。東日本大震災級の地震など自然災害に何度も見舞われ国土は疲弊、経済もガタガタになって落ち込むところまで落ち込み、希望を失った国民は次々自殺する。政府は自殺を犯罪とし自殺者の火葬・葬儀を行うことを禁止、遺族も罰せられる法律ができる。
 そんな日本のどこかの、自殺者も火葬し葬儀を行う、違法の火葬場・葬儀場。渡部野乃所長(能登屋南奈)と鳥居月子(工藤舞子)、因幡吉樹(戸澤亮)が働く。ある朝、自殺志願の若い兄妹、加瀬基(大島宏太)、紬(宮崎安津乃)が来る。紬は盲目だ。大金を見せ、自殺を決行するまで居させてほしいとの依頼を渡部所長は承諾する。
 同じころ、震災孤児で新聞記者の安堂夕日(谷村卓朗)が取材依頼に来る。(この場所は特定されないように念入りに配慮した)記事を書いて、自殺者とその遺族を罰するという法律の不条理さや不要さを訴えたい−渡部所長は承諾する。実は安堂は6年前、21歳だった姉あんず(佐藤愛梨)を“自殺”で亡くしていた。毎朝通ってくる安堂の取材期間は1カ月限定。やがて思ってもみない人間関係が見えてくる−。
 よくぞここまで徹底した、というほどの救いのなさはむしろ見事だ。終演後、しばし客席に腰を置いたまま、絶望的な気分に襲われる。当日配布のパンフレット「ご挨拶」で畠山自身が創作動機や「決して楽しい芝居ではありません」などと書いているが、僕も、若い可愛い女の子揃いで「何はともあれハッピーエンド」でここまできたパーソンズがぁ?と驚き、動揺する(本作が第6回公演。思っていたより寡作だ。ただ、僕にはどれもが記憶に深く、一作ずつ成長していることを実感する)。「『3・11』後の芝居」として、パーソンズ所属で今回は出演していない阿部星来が「希望」を象徴する狂言回し役を好演したyhs「つづく、」と真逆の世界なのだ。
 畠山の新境地として大いに認める。いや、そもそも人間には誰しも「明」と「暗」があって、本作は「暗」を突き詰めた作品なのだろう。そうして描かれないからこそ、逆に観客が想像力=創造力を駆使して見えてくる「明」が、確かに、ある。そして人間も、創造される演劇も、「明」か「暗」かの一本調子では行き詰まるし飽きられるということが、確かに、ある。その意味では阿部が客演した「つづく、」との両A面として、僕は見た。「深爪に愛。」も「つづく、」と同様、「祈りの芝居」なのだと思う。
 劇作は特に声を張り上げる場面もほとんどなく、淡々と心に染み入る感じ。時折のかすかな鈴(りん)の音やサイレン、照明の強弱が効果的だ。テーブルやソファ、椅子など必要最小限の舞台装置、それに出演者の衣装も白と黒で統一され、「生」と「死」を象徴する。それだけに、芝居の最初と最後の大音響の音楽やレーザー光線みたいなものは、僕には場違いに思え、なくもがなと感じた。また、時代背景の説明など、台詞をもう少し削ってもよいとも思った。ラストの安堂、あんず、月子の場面などは、安堂があまり言葉を発さなくとも、ここに至るまでの描写で、観客は十分に思いを汲み取れるはずだ。
 心身の状態に悩み苦しんでいる人を助けてあげるとして、手をかけることの意味−。ようやく客席から腰を上げた僕は、森鷗外の「高瀬舟」を思い出していた。
 それにしても日曜日に公演がないのはもったいないな。パーソンズが一回り大きくなるための芝居(だと僕は受け取った)。せめてマチネだけでもあったらよかったのになあ。
※蛇足の追伸
 ネット社会がいまよりずっと成熟しているであろう50年後に、まだ紙媒体としての新聞の存在を信じてくれたことだけで、畠山に感謝感謝です。
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2014年09月19日

さよならと言う前に

 Theater・ラグ・203「さよならと言う前に To say Good bye is to lead to Heaven a little」(作・演出村松幹男)を9月7日(日)、札幌・ラグリグラ劇場で見た。
 荒廃した近未来のうらぶれた女郎屋。「不思議なもんだよな。アレが起きて世の中はこんな風になっちまった…」。「延びろ 延びろ 天まで 延びろ 『私は死ぬんだね?』 そうすりゃ いつかは 天国へ」。人を動物を、街をも消し去る「アレ」の正体は不明なまま、物語は進行する。女郎のレイ(萬年わこ)を駆け落ちに誘う女衒(村松幹男)。そうした中、この女郎屋も「アレ」の渦中に…。
 出演はほかに女郎のミカに久保田さゆり、ハルカに吉田志帆、アヤに田中玲枝、リナに瀬戸睦代、女郎上がりのやり手婆(ババア)にイズミユウコ(知る人ぞ知る、劇団イナダ組最初期の看板女優)、番頭に鈴木亮介、楼主に平井伸之。
 「アレ」を、「3・11」後に代表される、混迷の奈落へと落ち込み行くような今日的状況と捉えることもできよう。芝居は一見、救いようのない絶望だ。村松のニヒリズムの極点とでも言おうか。けれども滅び行くものたちの向こう側に、ニヒリズムの深い霧の彼方に、かすかに希望の灯はともっているようでもある。
 女郎屋のベッドが五つ並んだ部屋の装置が秀逸。鰻の寝床のように長細い劇場で、ここまで丹念に作り込むとは。それがまた、この実力派劇団の役者陣を下支えする。終演後、それらはとんとんとんとんと1時間もかからないうちにばらされた。なんともったいない。あとは打ち上げで芝居談議だ。
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2014年09月06日

父と暮せば

 ユニット together again(埼玉)「父と暮せば」(作井上ひさし=1994年初演、構成演出+=ト書き朗読宇都宮裕三)を9月6日(土)、札幌・シアターZOOで見た。
 昭和23年7月、広島。福吉美津江(23歳、板垣桃子=劇団桟敷童子)が一人で住む家に、原爆で亡くなったはずの父竹造(若林正=大沢事務所)が現れる。美津江は勤め先の図書館で、原爆の資料を集める木下という利用者の青年から好意を寄せられているが、死者への申し訳なさから親密になれないでいるため、「恋の応援団長」を買って出たのだ−。
 準ドラマリーディング公演。壇上にパイプ椅子と譜面台(演劇での言い方がわからない)が二つ。上手に若林、下手に板垣。壇の下、最上手に宇都宮。若林、板垣とも、極最小限の動き。それだけで十分、納得。見る側の想像力=創造力を喚起する。
 ブラボー!!
 落涙。
 最前席で、ファンである板垣をまじまじと見つめる。ほんとうに美しいな、適役だな。
 どもさん(安念智康)プロデュース+演出で10年続いた、西村知津子さん(劇団にれ)、斉藤誠治さん(劇団新劇場)コンビも良かったなあと思い出す(11年にシアターホリック「殿堂入り(再演作品対象)」に選定)。
 いろいろと思いがありすぎて、もう、言葉がない。
 お薦めです。ぜひご覧ください。
 上演時間70分余。楽日7日(日)は15時開演。
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ちゃぶ台の蟹と踊らせて

 劇団・木製ボイジャー14号「ちゃぶ台の蟹と踊らせて」(脚本鎌塚慎平、演出前田透)を9月6日(土)、札幌・ブロックで見た。
 癇癪持ちの公務員、43歳引きこもり、前科持ち自由人。3きょうだいの母がとうとう死んだ。パチンコ通いの愛煙家、金に困らないバツイチ子持ち。姉妹の義母がようやく死んだ。国際結婚エリート、3年間行方知れず、青春謳歌の大学生、ネカマのフリーター。4きょうだいの祖母がふいに死んだ。悲しい報せで、いつだか振りに全員がそろう。おばあちゃんの家は、おばあちゃんが居たときみたいにうるさいし、久しぶりの家族は、けっこうウザい。
 4兄弟の末っ子でおばあちゃん子だったセブン(20歳、松崎修)を中心に、祖母キヌエ(74歳、前田透が大きなかぶり物をかぶって演ずる)の通夜から告別式までの一日を描く。
 普通に、良い話で、良い芝居だった。ただこの“普通に”というのが曲者だ。僕は十分睡眠を取ってマチネを見たが、中盤、眠気に襲われた。幸いにも眠らなかったが。深川市在住の観劇愛好家松井哲朗さんは「眠るのも批評のうち」とおっしゃる。まあ、確かにそうだな。
 何を書きたいかというと、順風に流れていると見えるものが、時として逆風に流されているということがある、ということだ。ややこしい比喩でごめんなさい。でも、そうなのだ。
 本作は戯曲も演出もとても丁寧に創られており、その意味で“普通に”良い芝居だ。ただ、淡々と流れているかと思うと、それが意に反して流されている状態だったりもしかねない。漫然と、あるいは冗漫に、ということにもなりかねない。
 そういう場合にどうすべきか? 劇作素人の僕が書くのもなんだが、物語のいろいろな意味でのキーポイントを創ることが大切だと思う。例えば、観客の心にあえて傷を付けるような、あるいは観客の心に自然と刻み込まれるような。そうしたキーポイント(「起承転結」で言えば「転」かな)が、僕には本作ではあまり感じられなかった。それが眠気を催した原因だと思う。
 キーポイントには芝居を引き締める効果もある。上演時間95分の本作にキーポイントがあれば、それはもっと短く感じられただろう。
 今回は第2回公演で僕は初見だが、“普通に”良い芝居を創るカンパニーと見た。今後は“普通に”が取れて、すごく良い芝居を創るカンパニーになることを期待したい。
 楽日7日(日)は14・18時開演。
posted by Kato at 17:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

近代能楽集〜「班女」「葵上」

 実験演劇集団「風蝕異人街」の「近代能楽集」(作三島由紀夫)〜「班女」「葵上」(演出こしばきこう)を8月31日(日)、札幌・アトリエ阿呆船で見た。
 新潮文庫で手軽に読めるので、あらすじは割愛する。
 「班女」は40歳、独身の画家実子に三木美智代、彼女が家に住まわせている美女花子に山本美里、花子が再会を待ち焦がれている吉雄に本多竜二。
 「葵上」はブルジョア風の女六条康子に三木美智代、かつて恋仲だった若林光に上村聡、光の妻で入院中の葵に山田稜子、看護師に山本美里。
 2作が連続して計75分の上演。両作とも、こしばとは思えない(笑)はったりのない、端正で抑制された演出。舞台装置も必要最小限にとどめ、役者の肉体の動きに“もの”を言わせた。これにより、三島の流麗な言葉による美の世界が浮き彫りになった。
 特に上村聡が良かった。10年以上前には僕が「北方の暗黒宝塚」と呼んだように、女性主体の劇団だったが、今はそうでもない。この日の上村には切れがあった。
posted by Kato at 12:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする