2013年11月30日

汚姉妹(おしまい)

 劇団アトリエ「汚姉妹(おしまい)」(作・演出小佐部明広)を11月30日(土)、札幌・シアターZOOで見た。前回公演「ザ・ダイバー」について書いた時(9月23日)、ぜひとも野田秀樹の名作「赤鬼」の上演をと薦めたが、小佐部は自ら「赤鬼」的な作品を作ったと言えそうだ。
 川のそばに若いホームレスの男女がいる。知的障害的な姉ハル(山下瑚波)と聡明な妹アカリ(柴田知佳)、元漫才コンビのタシロ(松本和馬)とエンドウ(伊達昌俊)の4人。一方、大金持ちの会社社長マツイ(小山佳祐)は左目の見えない息子ユウタ(有田哲)、愛らしい娘ミーコ(斉藤詩帆)と暮らす。ユウタは絵を描くのが好き。いつも大好きなハルを描きに来る。ある日、人生の勝利者を自任するマツイは抑制の利かない欲望のはけ口として、あることを企む。それはアカリの「人生」を買い、弄ぶことだった−。
 野田の「赤鬼」を思い出したのは知的障害っぽい登場人物からの連想もあるが(「赤鬼」では野田演ずる兄の“とんび”)、それだけではない気もする。見終えた後にとどめようもなく湧いてくる人生しみじみ感だからだろうか。
 ただ、物語の展開に生理的に嫌悪感を抱く方もおられよう。もしかしたらWOWOWでさえ放送禁止ものかもしれない。でも、相当気合の入った芝居だ。
 一点、マツイともあろう人がなぜこれほどまでにホームレスたちに執着するのかがよくわからないなと思いつつ見ていたが、進行に従い語られていき腑に落ちた。
 本作はいわば「家族」、あるいは「疑似家族」についての物語だ。血のつながりと血ではないつながり。その両方ともが、人が生きていくには必要なのだ。
 山下の不安定感と思えていたものが、終盤になると妙味になっている。得がたい魅力だ。
 姉妹が折に触れ口ずさむ歌「泣いちゃ〜ダメさ〜いつも〜笑って〜楽しく生きよう〜(以上、歌詞)」(旋律がオリビア・ニュートン=ジョンもカバーしたジョン・デンバーの名曲「カントリー・ロード」に似ている)がどこまでもやさしく、限りなくかなしい。愛おしい。私にとっては今年の収穫の一本だ。
 楽日12月1日(日)は12・17時開演。
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ロッスム万能ロボット会社・訂正

 また本日も訂正です。
 前項「ロッスム万能ロボット会社」で赤坂謙嘉とあるのは赤坂嘉謙の誤りでした。
 お詫びして訂正します。
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ロッスム万能ロボット会社

 札幌座「ロッスム万能ロボット会社」(原作カレル・チャペック=1920年作、翻訳千野栄一、脚色・演出すがの公)を11月29日(金)、札幌・サンピアザ劇場で見た。私たちが当たり前のように使っている「ロボット」という言葉を生み出した歴史的な戯曲だ。出演者19人のほぼ全員が違う役柄を演じ分けるA、B2チームがあり、初日のこの日はAチーム(ということで、キャスト紹介は札幌座ブログをご参照ください)。
 優れたロボットを製造しているロッスムのユニバーサル・ロボット社。心を持たず疲労も知らないロボットたちは、安くて万能の労働力として世界中で雇用されていた。働く必要がなくなった人間は徐々に退化し、ついには子どもが一人も産まれない世の中になってしまう。そんな時、意思を持ち始めた一部のロボットが反乱を起こし、 人類は絶滅の危機に…。人間の手助けなしでは増えられないロボットと、命を生み出すことができる人間。世界はいったいどうなってしまうのか…。機械文明が人類にもたらしたものとは…。
 私などには何度見ても飽きない名作オタク映画「ブレードランナー」を思わせる予言の作。これまでSKグループなどで幾度となくロボットを登場させてきたすがの(札幌ハムプロジェクト代表・札幌座ディレクター)の札幌座での初演出には本当に似合いの戯曲だ。
 劇場入り口から通路、舞台上のイントレにまでずらりと並ぶ120体の白いロボット人形と主要役柄の黒い衣装が、物語の不吉な展開をくっきりと浮かび上がらせる(通路のあたりはちょっと秘宝館を思わせて、むふふなのだが)。
 上演時間は4月の試演会(ブログ4月28日記載)で3時間超だったのが、8月の試演会(8月24日記載)で2時間20分になり、本番では10分間の休憩を含み1時間50分にまで短縮された。でも不自然さは感じない。ヘレナ(A=宮田圭子)がロボット製作の設計図を焼却する場面など、試演会の時より演劇的な時間の処理や見せ方の工夫が凝らされていた。すがのの読み込みの深さゆえだろう。
 出演者の濃いメークは私にはイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を思い起こさせる。そういえば30年前の“世紀末”のころは、こうしたテクノ調が近未来を予感させたんだよな。30年が経過して、日本も世界も予想もしなかったほどに変な方向に進んでしまっている感じがするのだけれど。
 第2回試演会で私の好みについて言及したラストは、本番ではしっくりきた。それまで無機質的だった物語が有機質になったかのよう。血が通うのがわかる。ああ、A、Bともアルクビストを演じる赤坂謙嘉が、蜷川幸雄シェークスピアに欠かせない俳優吉田鋼太郎に見えてくる。なんだろうかねえ、この思い、心揺さぶられて。再生への希望、まさに今、日本が、世界が、そうなってほしいという願いが底に流れている。
 開演は30日(土)14時A・18時B、12月1日(日)14時B、2日(月)14時B・19時A。
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2013年11月27日

第7回さっぽろ学生演劇祭「超時空概論FRUITS BASKET(フルーツバスケット)」

 観劇日が前後して恐縮だが、第7回さっぽろ学生演劇祭「超時空概論FRUITS BASKET(フルーツバスケット)」(脚本・演出松崎修=札幌市立大学)を11月17日(日)、札幌・サンピアザ劇場で見た。
 宇宙西暦3030年、太陽系の惑星で爆発的ムーブメントを巻き起こしたスポーツ・FRUITS BASKET。しかし、わずか1年で宇宙の歴史から姿を消す。成績の振るわないFRUITS BASKETプレイヤー・コスモ。好奇心が止まらない未来少女・シズカ。2人が出会うとき、宇宙の歴史がビッグバンと共に変わり始める−(以上、チラシあらすじ。出演者名は載っているのだが、劇場配布のパンフレットにも配役表がなく、間違えを避けるために記載せず)。
 物語がわかりやすく、演出もスポーツとしてのFRUITS BASKETのシーンなど数が多い役者一人一人の動きが緻密に組み立てられており、よく目配りが利いていて好感を抱いた。
 シズカが小学校の同級生にいじめられ、いじめられないようになる約束のため、FRUITS BASKETとビッグバンの関係を探りに宇宙歴史研究者である祖父を頼って3030年の過去にタイムワープし、過去を変えてしまったため現代(何年だろう?)に連れ戻され、謎の場所で、最後のプレーを終えたコスモに再会するラストシーン。なにがどうなったのかまったく曖昧だが、私はあれはあれでいいのではないかと思う。文字通り静かで落ち着いた余韻のある、雰囲気のあるラストだった(松崎の本意ではないかもしれないが、私は本作全体には鴻上尚史の一連の作品や野田秀樹「エッグ」の影響を見て取り、ラストシーンにはスタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」を思い浮かべた)。
 ただ惜しむらくは、たとえそうだとしても、上演時間2時間のうち最初の1時間を使って丁寧に描かれた、シズカが小学校でいじめられるシーンの後日談などは、なんらかの方法で観客に伝えることはできなかっただろうか。ラスト、シズカの短い台詞で(独白でも、コスモに対してでもよいが)、あるいは小学校の同級生がシズカに仲良さそうに手を振ったりしながら舞台袖にはける動きなどで。でなければ、上演時間の半分までを使って物語の“端緒”を延々と描いたのは丁寧にすぎるし、観客に必要以上の情報を与えてしまうことにもなったと思う。
 また本作のチラシには、シズカ役の女優と舞台には登場しないご高齢の男性が果物と花を贈り合う、映像的にも美しいほほ笑ましい写真が使われているが、本作舞台にありそうでなかったのはこの妙味である。つまり、ちょっとの伏線と遊び心としての妙味。具体的にどうしたらよかったのか私にはわからないが、それらがあったら物語の展開はより重層的になり、ワンランクもツーランクも上に行ったと思える。
 役者としては小学校教諭役の女性、オカマの警備員役の男性が印象的だった。女性は台詞も身体も一番シャープに切れていた。男性は跳ね上がらず丁寧に役を生きていた。
 作・演出の松崎修、名前を覚えていて損はないだろう。
 札幌劇場祭の新人賞エントリー作は本作しか見られないが、もし受賞してもまったくおかしくはない。 
 
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トワイライト

 弦巻楽団「トワイライト」(作・演出弦巻啓太)を11月25日(月)、札幌・シアターZOOで見た。
 チラシによると、あらすじは−その小学校の会議室では、緊急の案件が話し合われていた。年に一度の学習発表会で6年生が上演する筈だった「猿かに合戦」が、一部の父兄から問題があるとされ、上演するかしないか議論になっていた。周囲との軋轢を避ける為に、上演中止を望む教師。ここまで練習して来た生徒の為にと、上演を望む教師。「猿かに合戦」を巡る議論は、穏やかで、平和だった学校の日常を変え、それぞれの教師が抱える問題や、過去の因縁をあらわにしていく。教師だって、人間だもの。
 昨年から「劇団員」が所属する、真っ当な「劇団」にあらためてなったという弦巻楽団。弦巻得意のウェルメードなコメディーを期待していた観客には少なからず驚きだったのではないか。終盤にいくに従っての心理サスペンスである。職員室、心理サスペンスというキーワードだと、まず弘前劇場(青森)が思い浮かぶが、それよりもちょっとえぐさの度合いが濃いといった印象。80分の比較的短い上演時間に、出演者9人の心と心が交錯し、葛藤する。
 このざわざわ感、もしかしたら弦巻は6月に上演した札幌座Pit「ブレーメンの自由」(作ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー)の演出法を探っていく中で体得したものかもしれない。 
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第8回北海道中学生演劇発表大会…竹生東さんを悼みつつ

 第8回北海道中学生演劇発表大会が11月24日(日)、札幌市教育文化会館で行われ、最優秀賞に札幌市立篠路中「『パレード旅団』より」(作鴻上尚史=既成、代表生徒佐久間泉真=演出・出演、指導者長濱高雄、川村栄子)、優秀賞に登別明日中等教育学校、札幌市立北野台中が選ばれた。優良賞は日高町立門別中、帯広市立帯広第四中、砂川市立砂川中。ほかに石狩市立花川南中特別支援「つばさ」学級が特別上演した。
 審査員は私と溝口博史さん=北海道放送常務取締役=、藤村智子さん=札幌劇場連絡会会長=の3人。不肖私が昨年に続いて審査委員長を務めさせていただいた。
 と、ここまで事実だけを書くのに、思いもかけない時間が要った(食い扶持としての職業柄、ブログでは記録性とともに速報性も重んじてきた私だが)。9年前、全道600の中学校に電話をかけ、この大会の趣旨を伝え、参加を促し、実現にこぎ着けた、まさに大会の屋台骨である北野台中教諭で演劇部顧問の竹生東さんが10月9日、急性膵炎のため54歳の若さで亡くなられたことの重さ、大きさが全身に降りかかってきたからだ。 
 今回ほど「選ぶ」ことの残酷さを突きつけられ、思い知らされたことはかつてない。
 私は単なる演劇マニアでしかない。にもかかわらず、頼まれればほいほいと、札幌劇場祭の第1回から審査員を務めたり(2006〜08年)、いまもサンピアザ劇場での上演演目が対象の神谷演劇賞の審査員を務めさせていただいている。まったく軽佻浮薄なことこの上ない。
 今大会は23日(土)の開会式からして、当然ながら竹生さんへの黙祷から始まった。北野台中の発表時には竹生さんを偲ぶ生徒、保護者の方々で観客席が満席になった。これはどうしたって自然に、顧問の竹生さんが亡くなった悲しみが癒えないまま、つらさを抱えながら懸命に演じる北野台中の生徒たちに心情がいく。私が審査員になったのも竹生さんと出会い、依頼されたからであり、竹生さんの遺作だと思われる創作劇「上を向いて歩こう2013」(作者にはもう一人、室達志とクレジットあり)の出来も素晴らしかった。できることなら最優秀賞を贈りたい−。私は情と論の間を揺れ続けた。考えに考え抜いた。
 審査会で審査員3人が「せーの」という感じで自分の推す最優秀賞作を出し合ったら、3人一致で篠路中だった。ほかの審査員お二方の心中がいかほどだったかはわからない。でも誰かが誰かを説得して同意に至るといった経緯はなく、一発ですぐに決まった。
 函館出身の小説家に佐藤泰志という人がいた(1949〜90年)。芥川龍之介賞候補に5回もなり、89年には三島由紀夫賞候補になるなど実力を認められていたが、結局なぜか受賞はかなわず、90年に41歳で自ら命を絶った(近年、作品が再評価され、故郷函館を舞台に数作映画化もされている)。佐藤自死の知らせを聞いた、もともと佐藤を高く評価していた三島賞選考委員の文学評論家江藤淳は「あの時、三島賞を贈っていたらなあ」と慨嘆し、ため息をついたという。その江藤も98年に病死した奥さまを追うように99年に66歳で自死した。
 「あの時、三島賞を贈っていたらなあ」という、この「選ぶ側」の心情、ある意味での傲慢さ、残酷さ。でも私はここで江藤を非難するためにこの話を持ちだしたわけではない。最優秀賞になるか優秀賞になるかは、本当に髪の毛一本ほどの差しかないのだと思う。言葉を換えれば「運」としか言いようがないかもしれない。
 竹生さんなら、私が先に書いたようなハンディキャップを加味しての最優秀賞はお喜びにならなかっただろうと思う。北野台中の生徒たちにも失礼千万だっただろう。
 本当に「選ぶ」ことの残酷さが身に染みた大会だった。疲れ切った。でも、素晴らしい大会だった。竹生さんの思いを継ぐ関係者みなさんの尽力で、大会の裾野がいっそう広がることを願ってやまない。
 謹んで竹生東さんのご冥福を心よりお祈りいたします。
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2013年11月23日

私の人生・訂正

 前項「私の人生」で私、曜日を間違えました。きのう11月22日は金曜日でした。訂正します。
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私の人生

 チェーホフ劇場(ロシア・ユジノサハリンスク)「私の人生」(原作アントン・チェーホフ、脚色・演出ヴャチェスラフ・トィシューック)を11月22日(土)、札幌・シアターZOOで見た。
 チェーホフの小説(日本で出版されている題名は「わが人生」)を舞台化。「資本」と「教育」の特権を受けている若者ミサイールが専制的な父親の権力下から解放され、人生において自分の役割を見いだす物語。上演時間約80分。
 英国の俳優チャールズ・チャプリンの言葉−「人生はクローズアップでみれば悲劇だが、ロングショットでみれば喜劇である」。
 いやあ、人生って本当に思いのままにならないものですねえ(ここは映画評論家水野晴郎さん風)。
 でも思いのままにならないから面白いのかもしれない。思いのままにならないのを逆に楽しめれば、一流の生き人(いきびと)になれるのかもしれない。相田みつをさんの詩にありそうな感じですが、細い教卓みたいなものと脚立、床に置かれたおびただしい数の本だけのシンプルな芝居の中の「人生」を見て、そう思った。しみじみ感いっぱい。
 本がさまざまなものを暗喩する小道具に使われたのが実に素敵なアイデア(終盤ではなんと胎児にも!)。チェーホフはサハリンの方々にとっては大切な財産なんだろうな、と思ったものです。
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2013年11月22日

ローザ・ルクセンブルク

 劇団千年王國「ローザ・ルクセンブルク」(作・演出橋口幸絵、作曲・馬頭琴演奏・喉歌嵯峨治彦)を11月22日(金)、札幌・サンピアザ劇場で見た。
 ローザ・ルクセンブルク(1871=一説には1870〜1919年)はユダヤ人材木商の娘としてポーランドに生まれドイツで活動した、マルクス主義の政治理論家、哲学者、革命家。片足が不自由というハンディを負っている。本作はその評伝芝居であり、体内に命を宿した橋口の社会に向けた決意表明でもある。
 舞台は観客席側に少しせり出して広く、奥にイントレが横並びに二つ、わずかに布がかかっていて、照明の加減で美しくも時に哀しくも見える。
 ローザ役は年代により劇団所属の女優4人が演じ分ける。坂本祐以(1886年〜)、堤沙織(98〜)、榮田佳子(1913〜)、村上水緒(17〜19年)。いずれ劣らぬ力量の持ち主のうえ、演じる年代が的確でもあり、不自然さは感じない。ローザの伴侶レオ・ヨギヘスに東海林靖志、盟友カール・リープクネヒトに櫻井ひろ、ほか配役が劇場配布のパンフレットで紹介されている役者は細谷史奈、阿部文香、西村智宜、林優樹。民衆に河野千晶、石郷麻衣子、堀川那奈子、梅村和史。ただ民衆は全員が演じる。
 千年王國初の社会派真っ向勝負作品といってもよいと思うが、予想以上に抑制が効いている。込められた思いは深く厳しい。それを情感豊かに彩るのが嵯峨の演奏。折々のダンスも観客の想像力=創造力を刺激してやまない(振付は東海林、櫻井、河野)。この音楽とダンスの間合いが絶妙だ。いつか見た演劇の感興に似ているなと思ったら、行き着いたのは松本修さん(札幌出身)のMODE(東京)のカフカ三部作(「失踪者」「審判」「城」)だった。同三部作は12月に東京で連続上演される予定で、ぜひとも再び見たいし、ご招待状も頂いているのだが、どうにも行かれそうにない。本作の視覚、聴覚的面白みは、それら傑作三部作にちょっと近い。ということで、上京は我慢しよう。
 ラスト、史実通りに、ローザは虐殺される。橋口得意の舞台効果も登場して、幾分情緒的に流れた感もあるが、ここまで抑えてきた芝居だもの、これでいいのではとも思う。というより、情緒を排した革命運動の展開がいかなる末路を辿るかは、1970年代初頭の一連の連合赤軍事件を見ても明らかなのだ。ここは目一杯、着飾るがよい。
 それにしても耽美派的なはずの橋口をして社会に物申させてしまう現代日本とはいかに不幸な国であろうか。罪人は誰か? 私たち一人一人が問いかけられている。
 開演は23日(土)13・19時、24日(日)13・17時半。
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2013年11月17日

水の中のホームベース・続

 うわの空・藤志郎一座(東京)「水の中のホームベース」(作村木藤志郎)を見てブログに書いたら、思い出したことがある。
 もう30年近く前、寺山修司の本を読んだら、「野球とはホームベースという故郷に再び帰ることを目指す物語である」といった趣旨が書かれていて、納得し共感した。
 本作はまさにそれを具体化した芝居だ。いまはダムの底に沈んでしまっていて、もうかなわないけれども、できれば再び帰りたい母校の中学校、そして故郷。
 村木は劇場配布のパンフレットで「大変に思い入れの強い作品です」とした上で、創作の契機を「三谷幸喜さんが当時何かのインタビューで『オカマとヤクザの出てくる芝居でおもしろいものは無い』っておっしゃってまして」、ならば自分が作っちゃおうと思った旨を書いているが、出来上がったものはその意図を超えて見事に、寺山修司が見抜いた野球=人生の望郷論になっているのだった。
 今回の札幌公演は1日2ステージだけだったが、この作品は一座のレパートリーとして今後も上演され続けていくだろうから、いつかご覧になる機会があれば、そんな野球=人生の望郷論も頭の隅に置いておかれるとよろしいと思う。
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水の中のホームベース・訂正

 前項「水の中のホームベース」で途中、また変なところで改行になったり文字化けしていた。
 「第1回リプトン演劇祭」の後は「・最優秀賞受賞、2001年に〜」と続きます。
 すみません。
 デジタルのしでかす脅かしには本当に悩まされます。
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水の中のホームベース

 うわの空・藤志郎一座(東京)「水の中のホームベース」(作村木藤志郎=お父さまが旭川出身、演出村木・土田真巳)を11月16日(土)、札幌・シアターZOOで見た。
 ここは東京、おかみ(高橋奈緒美)と妹(佐藤栞菜)が営む居酒屋。従業員は菅井(藤田翔子=札幌・琴似出身)と孫(永井雅也)。最初の客(村木)をはじめ、人相の悪い客(水科孝之)、スーツを着たメガネの客(西村晋弥)、背の高い客(荒木太郎)、目立たない客(小林恵悟)、水商売風の女性客(高村めぐみ)、にぎやかな女性客(小栗由加)、怪しいサングラスの客(Dr.レオン=存じ上げなかったけれど、世界的な魔術師の方なんですね)、おとなしい女性客(島優子)、大柄な客(林俊行)が一人、また一人とやってくる。みな、誰かと待ち合わせしているふうだ。(ここからちょっとネタバレになるが)実は客たちの大方は、北海道の中心部、いまはダムの底に沈んでしまった清戸美中学校の同級生11人(男子9人、女子2人)。男子はみな野球部で、9人しかいないから替えの利かない、かけがえのない存在だった。きょうは、中学卒業後に散り散りになり、いまを懸命に生きているそれぞれが、ピッチャーで後に横浜ベイスターズに入団した藤村からはがきをもらい、彼と一対一で会うつもりだったのだ−。1998年に旗揚げ公演として第1回リプトン演
劇祭・\xBA
罵ソ┥渕ユ沺\xA22001年にシアターグリーンフェスティバル・グリーン大賞受賞。
 この一座との出会い、詳しい紹介は6月16日に「ただいま!」の中でしている。そこで書いた、10年余り前に東京・新宿の紀伊國屋ホールでたまたま見てえらく面白かった芝居がこの作品である(いまはゴールデンウイークの恒例になっている一座の同ホールでの初公演とのこと)。まさかそれから10年余経って、札幌の通い付けの劇場で再びこの芝居に出会えるとは思ってもみなかった。なんとも感慨無量だ。
 この一座は、台本がなく、「口立て」で作品を作っていくのが大きな特徴。だから、役者個々の力量には正直いって巧拙あるが、拙の役者でもその拙がゆえに巧まぬ個性となっているのが魅力だ。まさに「個性」という言葉を人として造形したらこうなりましたという役者の集まり。そうした一座の個性が、笑わせ泣かせる、おかしくてほろ苦くて切ない本作の設定、物語の展開にぴったりとはまっている。
 結局、居酒屋には最重要人物一人だけが来ない。その代わりに大切な人が来ている。焦りと不安といら立ちと気恥ずかしさを抱えながらも、それぞれに「夢」だけはあった中学時代の記憶。いまはダムの底に沈んでしまったけれども、それぞれの心の中にはしっかりとしまわれている、存在している母校、そして故郷。それが一人一人の胸に去来する。過去があって、現在を生きて、未来を生きる心の糧を見いだす。この芝居は見る人への素敵な応援歌になっている。そんなことを思う。
 ただ一点、私の好みと違ったのは、物語が後半に行くに従って背景の音楽が増えるところ。これだけの個性派揃いなのだから、役者の生身の身体と言葉だけで説得力も求心力も十分だったのではないだろうか。
 札幌劇場祭も会期の折り返し地点を過ぎた。本作は17日現在で唯一、私がオーディエンス賞で五つ星を付けた作品である。




 
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2013年11月16日

私たちの賞味期限

 劇団パーソンズ「私たちの賞味期限」(作・演出畠山由貴)を11月16日(土)、札幌・ターミナルプラザことにパトスで見た。
 服織藍子(佐藤愛梨)は27歳、独身、漫画家。少年マンガ誌に戦隊ものでデビューしたが、いまは意に沿わず女性週刊誌に不倫マンガを連載している。いまの担当編集者は森谷一(井上嵩之)だが、実は彼の先輩で少年マンガ誌の頃の担当であった、妻帯者の植村勇太(白鳥雄介)とだらだらとした不倫関係を続けている。当然(なのかどうか)、「アラサー」の藍子はメンタル的に疲れ気味。筆も進まず、先週は休載してしまった。そんな藍子のアパートの部屋にある日突然現れたのが、家族戦隊ファミリーレンジャー。おかんレッド(工藤舞子)、ひきこもりブルー(宮崎安津乃)、キャバ嬢ピンク(能登屋南奈)の3人だ。といっても、ちょっとした居候の感じ。だが、ブルーのアイデアで連載不倫マンガの方向性を変えたところ、読者の反応は急上昇したという。藍子はこのまま自分の意に沿わない連載を続けていくのか、そもそも実生活での不倫はどうなっていくのか、そしてファミリーレンジャーの正体とは−。
 設定としては正直、どこかで見たり読んだりしたことがあるような物語だ(札幌演劇シーズン2013夏の劇団イナダ組「キカヌクスリ−女はそれを我慢できない。−」にも似ている)。でも、藍子の生活や思い、(発想としては突飛である)母と姉妹のファミリーレンジャーの生活や思いに丁寧に寄り添い、一つ一つのエピソードを拾い上げることで、今を生きる女性たちのリアルな像に結びついたのではないか。私が想像していた以上に生真面目に現代人の生きようを問い直す物語に仕上がっていた。
 それを下支えしたのが男優2人の演技。変に観客に媚びることなく、抑制したことで、女優4人を引き立てるのに一役買った。
 終盤、藍子の決意宣言が心にずしりと響く。私が札幌演劇を見続けて10年余りになるが、現代女性の等身大の胸の痛みにファンタジーや神話などを持ちださず、真正面から向き合い、真摯に取り組み、それを舞台化した作品というのは珍しいのではないか。その年代の女性はこんなことを考えているんだ、と思ったものだった。
 そしてラスト、藍子は森谷にある提案をする。たった一言だけ。映画評論家の故水野晴郎さんふうに言えば「いやあ、女性ってなんて可愛い顔しておっそろしいことを言う存在なんでしょうねえ」って感じだ。台詞は見てのお楽しみ。
 楽日17日(日)は13・17時開演。
 
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2013年11月09日

茶の間は血まみれ

 前項「ベッカンコ鬼」で途中、変なところで改行になったり文字化けしていた。
 文字化け分は3文字分ですが、書いたのは1文字、「父」です。つまり、「彼女の父」。
 最近、会社でパソコンを調整し直してもらったので、なにかがどうにかしたのかもしれません。すみません。

 コンカリーニョプロデュース「茶の間は血まみれ」(作弦巻啓太、演出イトウワカナ)を11月9日(土)、札幌・コンカリーニョで見た。
 弦巻楽団代表であり札幌座ディレクターの弦巻(実年齢はいま36、7歳かな?)の幼児期から現在までの半世を描く。とにかく厳しい、教師である父(柴田智之)と、演劇にはまった弦巻をそっと応援もしてくれる母(菜摘)。弦巻役は柴田、佐藤剛、上西佑樹、かとうしゅうやが代わる代わる演じる。出演はほかに小池瑠莉、滝ケ平愛美。
 人に歴史あり、だなあ。弦巻は高校時代にはすでに演劇で食っていくことを決意していたのがよくわかった。
 エピソードの断片を積み重ね、台詞を重ね合わせる手法はワカナ得意の演出法。劇場空間をめいっぱいに使って、すがすがしかった。
 弦巻とワカナというと、今でこそ創作法や出来上がる芝居のテイストなどは違うが、もともとシアターユニット・ヒステリックエンドの座付き作家・演出家と看板女優という旧知の仲。それをこうした企画で出会わせたのはコンカリーニョならではの面白さだったと思う。
 開演は10日(日)14時、11日(月)20時。
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ベッカンコ鬼

 座・れら「ベッカンコ鬼」(作さねとうあきら、脚色ふじたあさや、演出鈴木喜三夫)を11月9日(土)、札幌市こどもの劇場やまびこ座で見た。
 フエフキ峠のおかしなおかしな顔の鬼(前田透)は山の者にも里の者にもべっかんこオニと笑われバカにされていた。ある日、3年前に亡くなった母の墓参りに山に来た盲目の娘ゆき(小沼なつき)に一目惚れしてさらい、無理やり一緒に暮らし始める。初めのうちは怖がるばかりのゆきだが、いつも優しい鬼に次第に心を許し始める。盲目の彼女も里で人々に差別されていたのだ。被差別者同士の心が近づく。鬼としてはどうしてもゆきの目を開けさせたい。一緒に美しい夕焼けや色とりどりの花々を楽しみたい。山母(やまがか)さま(竹江維子)に相談すると、谷間にたった一本ある青い花の根の水を掛けると目が見えるようになるという。苦心の末、ようやく鬼はその青い花を見つけるが、ゆきを失って3カ月余りになる彼
女の�
��(櫻井健作)が鬼に銃口を向けた−。出演はほかにコロスとして信山E紘希、フクダトモコ。
 児童向けの民話劇というと、私などには縁遠い感じがしていたが、本作は大人が鑑賞しても納得の一級品。さすがは「座・れら」だけのことはある。なんというか、このカンパニーに私は良い意味での“余裕”“遊び”を感じるのだ。つまり、普段120%の稽古をしているから、本番で100%を出せるという“余裕”であり“遊び”。(いま車は所有していないので、こうした比喩が適切かどうかわからないが)車のアクセルを踏んでもすぐには発進せずに、少し“余裕”“遊び”があるでしょう?(いまのオートマチック車はよくわからないが)。あの感じというか。しかも芝居づくりが念入りで緻密だから、手織りもののような味わい深く馥郁とした舞台になる。
 役者陣の息がぴったり。前田の鬼と小沼のゆきは本当にお似合いのカップルだ。ある事情から清楚なゆきが一転、ラスト近くで踊るように狂乱する場面には目を見張った(振付花柳喜衛文)。山母さまの怒りの部分が憑依したかのような激しい動き。舞台がびしっと見事に締まった。
 劇中歌はオリジナルとのことだが、場面ごとに的確で浮いていない。YUKIIによる音楽(電子ピアノ)、つくねによる篠笛・打楽器も情感たっぷりに芝居のスケール感を増幅させている。良い芝居を見た。
 楽日10日(日)は11・14時開演。
 ◉訃報
 「空の記憶」でアンネ・フランクの父オットー、「不知火の燃ゆ」で篤実な祖父を演じた「座・れら」の俳優澤口謙さんが病気のため、10月24日に亡くなられた。享年67。5月に食道がんが発見されたが、同月の韓国・光州での「不知火−」公演を成功に導いた、まさに札幌演劇界の重鎮だった。座・れら「不知火−」は札幌演劇シーズン2014冬の2月上演演目だが、代役を立てるとのこと。天国から見守られることでしょう。謹んで澤口さんのご冥福を心よりお祈りいたします。
 
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2013年11月08日

友達

 じゃぱどら!!捧腹編「菊谷さんと安部」のWATER33-39「友達」(作安部公房=初演1967年、演出清水友陽)を11月7日(木)、札幌・シアターZOOで見た。
 婚約者(成田愛花、池田優香のWキャスト)のいる一人住まいの男(田中春彦)のアパートの部屋に、ある晩、8人家族が押しかけてきて居座る。父(赤坂嘉謙)、母(高石有紀)、祖母(佐井川淳子)、長男(石川哲也)、次男(大槻紘照)、長女(畑山洋子)、次女(中塚有里)、末娘(奈良有希子)。8人は男の狼狽も意に介さず、男と「友達」として笑顔で接する奇妙な闖入者だ。男は管理人(平岩桜)や警官(後藤拓磨、高野和也)を呼ぶが、その3人も男を助けるでもなく、状況はいっこうに改善しない。8人とはいったい誰なのか。やがて男の頭が混乱し始め…という不条理演劇。出演はほかに元週刊誌のトップ屋として石川亨信。
 不思議な芝居だ。見ながら考えるほどに、観客としての私の頭も混乱してくる。知らぬ間に勝手に、なにか割り切れない、居心地の悪い時間と場所に置いてきぼりにされた思いがする。でもそうされることを、私は決して嫌ではない。
 その不条理な状況が自然かつ緻密な演出で描かれるから、なおいっそう不思議さ、奥を探りたい気持ちが増す。こうした芝居はいかにも不条理然というふうに演出されると、かえって不自然さを帯びてしまい、おもしろみが半減するものなのだ。観客としての経験則である。その点、清水演出は抑制がよく効いている。
 今回の戯曲は新潮文庫版の改訂版(74年)ではなく、初演版を使ったとのこと。清水によるとラストは変わらないらしいが、登場人物、特に家族構成などが少し違うらしい。この初演版芝居を見てから文庫の改訂版を読むという楽しみもありそうだ。
 開演は8日(金)20時、9日(土)15・19時、10日(日)13・17時。
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2013年11月05日

嬖姫(ペヒ)〜王子を愛した2人目の后〜

 劇団視線(韓国)「嬖姫(ペヒ)〜王子を愛した2人目の后〜」(作・演出ホン・ランジュ)を11月2日(土)、札幌・シアターZOOで見た。
 17世紀のフランスの劇作家ジャン・ラシーヌの「フェードル」を高句麗と北国を背景に再創作。腹違いの息子(王子)を愛した母親(后)のタブーを描く。
 女優たちが白装束で優雅に舞う姿が繊細で美しい。彼女たちが持ち、あおぐなどさまざまに使う扇は赤で、后らの心象風景を象徴して印象的だ。物語の過不足のない、それでいて暗喩に満ちた描き方、視覚的にも面白い舞踊が、見ている私の想像力=創造力を刺激した。
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2013年11月04日

ジャンキー・モンキー・ベイビー

 劇団イナダ組「ジャンキー・モンキー・ベイビー」(作・演出イナダ)を11月2日(土)、札幌・コンカリーニョで見た。
 ある街の港近くの倉庫。そこでは母が失踪した兄弟、正一(平井雅己)ときよし(小倉佑介)が覚せい剤を調合しており、売春婦のエリー(山村素絵)とリカ(阿部星来)、謎の外国人ミャンマ(天沼開)がおり、寺岡(井口浩幸)と高校一年の娘月子(大西琴実)が借金のため転がり込み、彼らのお目付け役ツーナカ(谷口健太郎)がいる。時折、リカと同郷で彼女を奴隷、もしくは彼女にしているサカキ(Ever ZOne HIROKI)が覚せい剤などの“上がり”を集金にやってくる。彼もイナガキという奴の手下らしい。ある日、ここに出入りしているめぐみ(吉田諒希)が拳銃で腹を撃たれた渋沢(武田晋)を連れてきた。渋沢も裏の世界の人間らしい。それぞれがそれぞれに拭いきれない忌まわしい過去にとらわれ、明日の希望を見いだせない日々。けれどもなんとかここではうまくやってきた。だが、ある時からそのバランスが崩れ、やがて事件が事件を呼び、狂気が狂気へと誘う…。出演はもう一人、兄弟の母に河口真子(以上、役者名の文字が一部、チラシと当日のパンフレットで違っている。ここではチラシに従った)。
 設定や舞台装置が劇団イナダ組「このくらいのLangit」(作・演出イナダ=2002年初演、12年再演)を思い出させる。だが、そこにあったかすかな希望が、この作品にはない。見ていて胸が痛くなるばかりだ。イナダ自身がパンフの「ごあいさつにかえて」で「こんな芝居は見たくないと言われることを覚悟で芝居にしました」と書いている。確かに好き嫌いがはっきりする物語かもしれない。それだけまだ「Langit」の時代には希望を持てたということだろうか。でも本作の絶望は今後、アベノミクスの進展などによる一部の人の右肩上がりと反比例して、いっそう深まる気がしてならない。その予測は当たってほしくはないが、時代の先を見通すイナダの一つの試みだったように思う。本当に当たってほしくはないのだが…。
posted by Kato at 21:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする