2013年07月28日

キカヌクスリ−女はそれを我慢できない。−

 劇団イナダ組「キカヌクスリ−女はそれを我慢できない。−」(作・演出イナダ、初演2008年)を7月28日(日)、札幌・コンカリーニョで見た。
 独身フリーライターの吹野カナエ(山村素絵)がある朝、自宅マンションのベッドで目を覚ますと、隣に見知らぬ中年男性(武田晋)が寝ていた。仕事に終われ散らかり放題の部屋。そこへ広告代理店勤務時代の上司で不倫相手だった鴨川(松橋勝巳)、彼の部下で今の恋人内海(城谷歩)、さらには妹カエデ(阿部星来)や友人みやこ(松岡春菜)、担当編集者さゆり(吉田諒希)、カメラマン(赤谷翔次郎)、カナエを慕う編集者恒松(小倉祐介)が来て、上を下への大騒ぎ。カナエに次々と不幸が襲いかかる。それもこれも彼女の優柔不断が巻き起こしたものだった−というコメディー。
 イナダ組の過去2回の札幌演劇シーズン演目「このくらいのLangit」(2012冬)、「ライナス」(2013冬)と比べると、テーマもそれほどには重たくなく、ある意味で気楽に見られるコメディーだ。観劇後に背負わされるものも、私には前2作よりは軽い。それにカナエと同世代の独身女性には、わかるわかると納得される方もいらっしゃるかもしれない。
 でもきょうの私には中盤のそれこそドタバタ部分がドタバタ過ぎのように思えて、少々うるさくも感じられた(初演時のブログでは触れていないが、今回になって一回り大きくしたのでもあろうか)。まあ、終盤のカナエと男との悲哀(であり、実は“出会い”でもある場面)をより際立たせるには必要なドタバタだったのかもしれないが。
 それよりはカメラマンらのちょっとした一言やしぐさに、思わぬくすぐりを感じたものだ。もちろん見る人の好みにもよるだろう。
 ちなみにカナエの部屋の散らかり方は、私には非難する資格がない。
 コンカリーニョという劇場の特性を十分に生かした舞台といっていいだろう。見終えた後は、明日からも自分にできる分だけは頑張ろうっていう気持ちにちょっとなる。
 札幌演劇シーズンの詳細については http://s-e-season.com/ をご覧ください。
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2013年07月22日

霜月小夜曲(ノヴェンバーセレナーデ)

 札幌演劇シーズン2013夏の第1弾、札幌座「霜月小夜曲(ノヴェンバーセレナーデ)」(作・演出・音楽斎藤歩)を7月21日(日)、札幌・シアターZOOで見た。11年の初演から、まだ2年しか経っていないのか。でも、芝居は役者たちの加齢とともに確実に進化し、深化していた。良い意味で時と所を得たという感じだ。主人公である不惑を過ぎた三人娘より少し高齢の私にも、北海道に住まう自分の生き方の問題として心にいっそう刺さってくる。
 あらすじを札幌演劇シーズンのホームページから引く。
 25年ぶりに再会した高校時代の仲良し三人組。結婚して実家の農業を継いだ友紀(吉田直子)。札幌で教員生活を送る睦美(宮田圭子)。世界へ羽ばたいたはずの節子(林千賀子)。かつて三人が歌い踊った流行歌(「スキ好きセブンティーン」)のB面「霜月小夜曲」。卒業記念に上演したチェーホフの「三人姉妹」。タイムカプセルに眠っていた亡き旧友からのメッセージ。あの歌が、あのセリフが今、彼女たちに語りかける。TPP交渉参加に揺れる道北を舞台に、人生の曲がり角をいくつも通り過ぎた女たちの物語。
 初演時の劇評は当ブログの11年11月30日に書いている(まだ札幌座ではなく、TPS時代だ)。
 友紀の夫、また息子役に佐藤健一、娘役に小川しおり(札幌ハムプロジェクト)。節子のブラジルでのビジネスパートナーである日系3世のカルロス役に彦素由幸(同)。友紀の隣家の夫婦役に木村洋次、山本菜穂。木村の妹役に高子未来。JA職員役に弦巻啓太。初演の配役から小川、彦素、弦巻が新たに変わった。
 初演時には〜
斎藤が書いてきた過去の諸作品に比べて、「死」のイメージが薄く、「生」を肯定するおおらかさがいっそう前面に出ているのは、謹厳実直な睦美、世界を股にかけて奔放な節子もそうだが、大地に根を張ってたくましく生きている“肝っ玉かあさん”(覚えている方はおられるだろうか。1968〜72年に放送された大人気テレビドラマです。主演は京塚昌子)的な友紀の存在感だろう。吉田の見事なはまり役だ。
〜などと書いているが、再演ではそうでもなかった。けっこう「死」のイメージはここかしこにある。私も年を重ねたせいかもしれない。でも、死があるからこそ、生は輝く。
 初演で「B面の人生」という言葉に強く胸を打たれた。
 ここからは例によって、まっとうな劇評ともいえない、私ごとを交えた文章になり恐縮だが、ご容赦いただきたい。
 我が母校、釧路湖陵高校は2012年、前身の釧路中学から数えて創立100周年を迎えた。記念誌「誠愛勇の湖陵百年」(「誠愛勇」は校訓)が作られることになり、卒業各期ごとにA4判1ページが割り振られた。ここで、幹事だったのかどうか釧路市職員であるクラスメートの男子Hくんが、私に頼んできたのである。「(原稿の)話を聞いた瞬間、即座に加藤君の顔が頭に浮かんだ」。私は引き受けた。
 でも湖陵35期(1983年卒業)全体のことは、とてもじゃないが書けない。私は同期10クラスのうち、自分の4組の当時と近況を書いて「想い出」とした(当時は1学年10クラスで計450人、男女比3対1だったが、文系志望の4組は男子23人、女子22人と絶妙のバランスだったこと、行灯行列でディズニー・キャラクターのダンボを作り、北海道新聞釧路市内版に写真がばかでかく掲載されたこと、卒業後初のクラス会を10年5月に釧路で開き、みんなの顔が輝いていたこと、まさにゲーテ「ファウスト」の一節「時よとまれ 君は美しい」だった、などなど…)。
 長大文の最後を、私はこの芝居「霜月小夜曲」と出会えた幸いを感じつつ、こう結んだ。
 今年は35期が卒業して30年目、ワン・ジェネレーションです。すでに成人されたお子さまをお持ちの同期生も多いでしょう。その意味でも感慨深いものがあります。48歳、とうに不惑は過ぎて、すでに人生の折り返し地点は回ったでしょう。これからはレコードで言えば「B面の人生」(「公益財団法人 北海道演劇財団付属 札幌座」の斎藤歩さんの言葉)をどう生きていくかを考える時期なのだと思います。そしてそれゆえにこそ、焦りと不安といら立ちと気恥ずかしさを抱えながらも、それぞれに「夢」だけはあった釧路湖陵高校時代を懐かしみ、大切な宝と思い返しながら、日々を過ごしていくのがいいのかなと思います。湖陵35期 加藤浩嗣 
 「霜月小夜曲」は私にとって里程標のような大切な愛しい芝居である。
 札幌演劇シーズンの詳細については http://s-e-season.com/ をご覧ください。
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2013年07月21日

生きてるものはいないのか

 劇団アトリエ「生きてるものはいないのか」(作前田司郎、演出小佐部明広)を7月15日(月)、札幌・ブロックで見た。
 原因不明のままに次々に人が死んでいく、「死」ではなく「死に方」に関する集団的不条理劇。2008年、第52回岸田國士戯曲賞受賞作。
 原因不明で取り立てて説明がないままに人が次々に死んでいくのが救いがなく、面白い戯曲だ。
 ただ、前々日に弘前劇場、前日に実験演劇集団「風蝕異人街」の力業、あるいは自然体を見た私の目には、大変申し訳ないながら、作劇、演技とも思い切り振り切れていないように感じられた。中高生演劇部員のいかにも伸びやかなはつらつとした芝居、大人のアマチュア劇団の熟達した舞台、その間隙を縫って、私などは学生芝居には学生芝居ならではの可能性、ある意味での振り切り方を求めてやまないのだが。今後にいっそう期待する。
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新版「青森県のせむし男」

 ザムザ阿佐ヶ谷提携公演、寺山修司没後30年記念認定事業、実験演劇集団「風蝕異人街」の「新版『青森県のせむし男』〜肉の墓を背負って闇を歩く〜」(作寺山修司、構成・演出こしばきこう)を7月14日(日)、札幌・アトリエ阿呆船で見た。
 寺山主宰の演劇実験室「天井桟敷」(1967年1月1日〜83年7月31日)の旗揚げ公演演目(67年4月18〜20日、東京・草月会館ホール)。寺山終生のテーマである母と子の血の因習、男女の性愛の情念、寺山の故郷である青森の土俗への愛憎が描かれる。
 出演は大正マツ(老いたる花嫁)にカンパニー創立メンバーである堀紀代美(Wキャストで平澤朋美)、大正松吉(母恋のせむし男)と少年寺山修司にカンパニー代表の三木美智代、女学生に丹羽希恵(Wキャストで山本美里)、旅芸人座長(老女マツ)に小山由美子、七草の女に石橋玲(Wキャストで長谷川碧)ら。
 風蝕が本作に取り組むのは4度目で、今回も新版と銘打ってはいるものの、想像以上にちゃんと“寺山していた”。ガーターベルト&パンティーストッキング姿のきゃぴきゃぴの女の子たちが踊りまくるといったいつもの過剰なお遊びはほどほどに抑え、むしろストイックにテーマを追い求めることで、寺山への熱いオマージュが随所に感じられた。寺山が謳った「見世物小屋の復権」が全編を貫き、堀のエロスを体現したといっていい妖艶美、三木の切れ味鋭い身体がその舞台によく映えた。東京をはじめとした寺山フリークの期待に応えたいというこしばの思いが凝縮され、十分に反映されたすてきな出来栄えだった。
 東京・ザムザ阿佐ヶ谷公演は8月10(土)、11(日)の両日、新版で。青森県三沢市では9月22日(日)、原作版を上演する。
 なお訂正を一つ。
 前項「君の名は」で、「戦後の有名なテレビドラマ『君の名は』」とあるのは「戦後の有名なラジオドラマ『君の名は』の誤りでした(まあ、その後、映画やテレビドラマにもなっていますが)。訂正します。
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君の名は

 劇団どくんご(鹿児島)「君の名は」(構成・演出どいの)を7月20日(土)、札幌・円山公園自由広場特設“犬小屋”テント劇場で見た。
 戦後の有名なテレビドラマ「君の名は」を借りて、ほとんど自由に演じられるフリージャズ的な舞台だ。釧路湖陵高でのクラスメート五月うかをはじめ、暗悪健太、2B、石田みや、どいの、ほかが出演。いつも通り、物語らしい物語はない。エピソードがいくつも並んだ構成だ。ただ、イタリアの映画監督フェデリコ・フェリーニが紡いだような「詩」はある。存分に堪能した。
 肉体の素晴らしさ。発せられる、アドリブ満載の生きた言葉。まさにフリージャズ。これこそ唐十郎いうところの「特権的肉体」だ。ぜひご覧あれ。
 楽日21日(日)は19時半開演。
 私は19時から、参院選の比例代表開票が確定するであろう午前4時ごろまでの勤務。この芝居のとことんまでの自由さをかみしめて仕事に当たろう。
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2013年07月14日

最後の授業

 弘前劇場(青森)「最後の劇場」(作・演出長谷川孝治)を7月13日(土)、札幌・シアターZOOで見た。
 札幌劇場祭2012大賞を「素麺」で受賞した劇団の新作だ。
 青森・弘前の夏、私立高校の職員室。臨月の養護教諭若井(小笠原真理子)のもとに、不登校の塚本(配役なし)が現れる。国語の真下(藤島和弘)が私立大准教授になる前の最後の授業を控えている。彼の後任である元大学教授笠原(先祖がこの高校の創立者の一人であり、舞台上手手前に先祖の残したおびただしい数の書籍が堆積している=高橋淳)に“教育”の手順を教える。野球部顧問の体育教諭佐伯(林久志)、花壇整備に忙しい数学教諭滝田(田邉克彦)、教育実習生(寺澤京香、佐藤真喜子)がおり、地元の新聞記者安藤(永井浩仁)がぷらっと取材に来る。
 −なんて、表面上のあらすじには書ききれない数々の思いが言内外にあふれ出る。それを長谷川はあえて書かない、演じさせない(その、それぞれの事象である“現場”に行く教諭はあまたにいる)。
 「素麺」(当ブログ2012年11月11日に記載)への長谷川なりの「返歌」である。そして私たちにあらためてさされた矢でもある。国歌、原発、ネット社会、本音と建て前−。それは私にとっては、この国がいよいよやばくなっていますよとの、東北からの意思表明に思えた。
 introの「わたし」では、昨年の「モスクワ」の思いを軽々と超えていたようだったのに…。
 ラストに近いクロノス・カルテットがいい。
 この芝居については、後日ゆっくりと論じたい。
 開演は14日(土)14時・19時半、15日(月・祝)14時。見ていただきたい。
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2013年07月06日

わたし−THE CASSETTE TAPE GIRLS DIARY−

 intro「わたし−THE CASSETTE TAPE GIRLS DIARY−」(作・演出イトウワカナ、振付東海林靖志、映像・音楽Anokos)を7月6日(土)、札幌・コンカリーニョで見た。
 2008年9月にコンカリなどで行われた「遊戯祭08〜太宰とあそぼう」に出品した、太宰治「女生徒」がモチーフの「5月1日」(脚本・演出イトウワカナ)を大幅に改訂した上演時間90分余の作品。
 ポップでシュールだ。ポップ&シュール。造語で「ポパンシュール!!」と叫びたい。
 登場するのは犬(宮沢りえ蔵=時に教師らしきおじさんも)と、20人の女生徒。間違えそうだけれど、全部書いておく(役名はあて書き、もしくはワカナの第一印象だろうか)。ちゃんと子(菜摘)、大き子(のしろゆう子)、どっしり子(石田聡子)、おじさん子(佐藤剛)、太陽子(Sun!!=ミジンコターボfrom大阪=本公演のことを「シアターガイド」8月号「わたしの今月〜ご当地編〜」に書いている)、踊り子(福村まり)、チビ子(坂本祐以)、影子(柴田知佳)、派手子(佐藤愛梨)、オカン子(高道みゆき)、清潔子(江崎未来)、へん子(小川征子)、拡張子(田中春彦)、ぼんやり子(山本茜)、素粒子(松崎修)、かっこい子(最上朋香)、こび子(斉藤詩帆)、よわ子(滝ケ平愛美)、ママ子(寺地ユイ)、幽霊子(森田亜樹)。ふーっ。
 20人は赤いポロシャツ(だと思う)に群青色の棒タイ、群青色のスカート。制服なのだろう。“彼女”らはそれぞれの名前の女生徒を演ずる上に、時として一つの集合体として、主人公である一人の「わたし」をも演ずる。
 舞台上手の高みに横に細長いスクリーン。そこに細胞のような抽象的な映像が投影されたり、軽快な音楽に合わせて皆で舞台狭しとコンテンポラリーダンスを踊ったり…。いかにもポパンシュールだ。
 起承転結とか序破急とかといった、くっきりした鮮明な物語はないに等しい。つまり、骨太、あるいは繊細な物語に没入したり、ある登場人物に感情移入して見たりということはなかなかに難しいだろう。ただ、幽霊子が死んだり、影子が他の子たちに「半分死んでいる」と言われていじめられたりというエピソードはいっぱいある。断片の積み重ねだ。終わり近くになると、いつの間にか子どもを産んでいたという子もいる。
 時間も場所も、どこでもないどこか。どこでもいい、「いま、ここ」。つまり「いま、ここ」から過去と未来、生と死を照射した芝居だとも言えよう。  
 そうした意味からも私には、札幌劇場祭2012で作品賞を受賞した「モスクワ」と対を成す作品に思えた。「いま、ここ」から照射した過去と未来、生と死、見終えた後の全体的な後味…ワカナは「モスクワ」で自分が提起した大きなものに、自ら解をひもとこうとしたのではなかろうか。
 ワカナの演劇的文体が見え始めた気がする。これからこそ、その演劇的文体を破壊しては再構築し、また破壊しては再構築するという、厳しくも気高い演劇人生が待っているのだろう。期待する。
 楽日7日(日)は14時・18時開演。
 19日(金)〜21日(日)に東京・王子小劇場でも上演される。私は行ったことのない劇場だが、あの印象的な横長スクリーンの設置は可能なのだろうか。東京でも大いに舞台で遊んできてください。
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2013年07月05日

ブレーメンの自由・再見

 これは毒だ。猛毒に違いない。致死量には十分の劇薬。見ていて、心と体がじわじわと蝕まれていくのがわかる。そしてそれがたまらなく快感だ。甘美だ。殺されるというのに。殺されるからこそか。
 札幌座Pit「ブレーメンの自由」(作ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー=1971年初演、翻訳渋谷哲也、演出弦巻啓太、音楽斎藤歩=歌詞は戯曲にある)を6月30日(日)、札幌・シアターZOOで再見しながら、そんな思いにとらわれた。
 役者たちはみな、下手の舞台袖から舞台に現れ、いったん立ち止まり何ものかに憑依されてから、演技する場所である台座の上に上がる。自らの登場シーンが終わり、下手舞台袖にはけるときはその逆。台座から下りていったん立ち止まり、何ものかの憑きものが落ちるのを注意深く待ってから舞台袖に消える。
 そうした手順を踏まないのはただ一人、出ずっぱりのゲーシェ(宮田圭子)だけだ(あると数えれば1回きり)。彼女だけは終始、何ものかにとりつかれたままなのだろうか。愛に執着し自由を求め続ける何ものかに憑依され続けているのだろうか。
 鋭利な刃物でさくっと切り取られたような芝居。切り口がきれいなあまり、血飛沫さえ飛んでこない。それほどに、さっくりだ。エッジが効いているとはこのような演劇のことを言うのだろう。本当に、札幌演劇シーズンの演目として取り上げ、全国の方に見ていただきたい舞台だ。
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日本語私辞典

 オイスターズ(名古屋)「日本語私辞典(にほんごわたしじてん)」(作・演出平塚直隆)を6月29日(土)、札幌・コンカリーニョで見た。
 日本演出者協会主催の若手演出家コンクール2011最優秀賞受賞作。
 あいうえお、かきくけこ…ばびぶべぼ、ぱぴぷぺぽ。舞台中央に置かれた、後ろ側を格子状に仕切られた大きな一枚の障子に71文字が書かれ、ストーカー(平塚)の出現に伴って、文字がある意味のありそうな順に一つ、二つ、三つ…と消されていく(文字部分の障子が破り捨てられる)。たとえば「ストーカー」から「ス」を消して「トーカー(話者)」などなど。
 「私」の世界から「た」という文字が消えてしまった途端、「私」は「わし」となり…。得意のナンセンスな会話で紡ぐ、自己と他者、言葉と概念のありようを問い直す不条理劇。出演はほかに高瀬英竹、空沢しんか、吉田愛、河村梓、田内康介、二瓶翔輔、山田マキオ、川上珠来。
 ラストに残ったのは「じ」。アフタートークで平塚は、「じ」は「文字」「自分」「時間」の「じ」だと解説した。
 着想は素晴らしいのだが、私は野田地図「オイル」(作・演出野田秀樹、2003年)を見ており、それに比べると物足りなかった。「オイル」で野田演ずる学者は日本古来の神様をまねて、棚状に並んだ日本語の「あいうえお(ヰやゑを含む50音)」から「アメ」「ツチ」「ソラ」を取り出す。その結果、神様は残った文字から「ヘン」なものをつくった。それは「ヨナレヲセヌヒト」という、古事記をモチーフにしたくだり。最後に残った文字は「オヰル」だった。それを「老いる」「OIL」と関連づけて、「時間」「石油」というキーワードを元に古事記の時代、広島への原爆投下直前、そして現代の日本を縦横無尽に旅するという、すごい発想の芝居だった。アマテラスオオミカミ、特攻隊、原爆投下、ギブ・ミー・チョコレート、9・11…。日本に原爆が2個落とされたから、ニューヨークに2機のゼロ戦で突っ込むという発想(私も当時、年末のマイベストで以下の通り書いているのだが、薄らいだ記憶のままに書くのは嫌なので、「オイル」についてはほとんどの部分を「しのぶの演劇レビュー」から引用させていただいた)。
 2003年12月26日(金)北海道新聞夕刊<カルチャープラス>私のベスト・舞台
■劇団北芸(釧路)「この道はいつか来た道」(9月釧路・10月東京)
*浄瑠璃的美学
 観劇数はダンス、演劇など242本(24日現在、複数観賞含む)。
 Kバレエカンパニー「白鳥の湖」(6月)の新解釈や物語る意志。劇場全体を使う桝谷博子バレエ教室「ピーターパン」(9月)の娯楽性。「DANCE MIX」(1月)のクラシックバレエと現代舞踊、「イエロードッグスパイラル」(3月)のダンスと演劇の出合いは大切にしたい。
 問いが普遍性を帯びた千年王國、SKグループ、串田ワーキングin北海道2年目「コーカサスの白墨の輪」(9月札幌ほか)、俳優金田一仁志の「あの頃(ころ)に戻り隊」(11月)など可能性に満ちた芝居。
 出演者が順に2、2、3、4人の劇団北芸「この道−」(別役実作。加藤直樹演出の近松浄瑠璃的美学が秀逸)、どもプロデュース「父と暮せば」(7月江別ほか)、シアター・ラグ・203「ディープッペンシュピーレ」(来年1月11日(日)深川、21(水)・28日(水)札幌で再演)、TPS「亀、もしくは…。」(12月、札幌ほか)は再演か再演込み。好評ゆえの再演か、再演ゆえの熟成か。舞台の「今、ここ」を一過性でなく見据えて深い。
 東京観劇では野田地図「オイル」、ひょうご舞台芸術「ニュルンベルク裁判」。「9・11」が暴いた「今、ここ」への手探りを道内でもぜひ。(文化部 加藤浩嗣)
 以上のようなわけで、「日本語私辞典」、発想はおおいに買うし、面白かったが、どうしても「オイル」とかぶってしまって、一観客として見た芝居としてのスケール感は残念ながら乏しかった。この言語との格闘のその先の向こうを想像させてほしかった、というところだろうか。
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