2011年11月30日

霜月小夜曲(ノヴェンバーセレナーデ)

 TPS「霜月小夜曲(ノヴェンバーセレナーデ)」(作・演出・音楽斎藤歩)を11月30日(水)、札幌・シアターZOOで見た。北海道の高校の同級生で、いまは不惑を越えた仲良し女性3人組のそれぞれの人生のありようを、温かな眼差しで描いた作品だ。
 名寄市智恵文の農家。安達友紀(旧姓矢沢、吉田直子)の家に、札幌から高校教師の澤田睦美(宮田圭子)、ブラジルから岩崎節子(林千賀子)が訪ねてくる。3人は地元高校の同級生。卒業後、友紀は同級生の安達拓哉(佐藤健一)と結婚、睦美は札幌の大学に行き、節子は上京した。以来25年。ブラジルで起業した節子からの突然の便りで、再会することになったのだ。節子はビジネスパートナーである日系3世のカルロス(鎌内聡)も連れてきていた。
 友紀は13年前、冷害による借金返済のため本州へ出稼ぎに行くなどしていた拓哉を病気で亡くし、長男圭介(佐藤=2役)、長女美菜(齋藤由衣)と暮らす。圭介は拓哉そっくりだ。隣家の村上四朗(木村洋次)、敦子(山本菜穂)夫妻、四朗の妹麻貴(高子未来)も畑を手伝ってくれる。
 高校でチェーホフの名作芝居「三人姉妹」を演じ、劇中で3人組アイドルグループの「スキ好きセブンティーン」も歌った仲良し3人組、感動の再会といきたいところだが、それぞれに事情を抱えてそうはすんなりいかない。なにより拓哉が出稼ぎしていたころ、名古屋のスナックで働いていた節子とひそかに会っていたらしいのだ−。出演はほかにJA職員役で茂木聡。
 元キャンディーズの田中好子さんの死を劇作の契機に、チェーホフの「三人姉妹」とも絡め、吉田、宮田、林と、TPS創設当時から10年間活躍してきた同年齢の俳優を実年齢に近い役柄にした当て書き(役者をイメージしながら脚本を書くこと)は、この劇団に長年親しんできた身にはそれだけでことのほか面白い。
 斎藤が書いてきた過去の諸作品に比べて、「死」のイメージが薄く、「生」を肯定するおおらかさがいっそう前面に出ているのは、謹厳実直な睦美、世界を股にかけて奔放な節子もそうだが、大地に根を張ってたくましく生きている“肝っ玉かあさん”(覚えている方はおられるだろうか。1968〜72年に放送された大人気テレビドラマです。主演は京塚昌子)的な友紀の存在感だろう。吉田の見事なはまり役だ。人形劇を織り交ぜたユニークな芝居の運びも、思わず笑ってしまう。
 日系3世ブラジル人が出てくるのに象徴されるように、道産子も元はと言えば道外から移住した(させられた)北海道移民○世で、農作物同様、交配に交配を重ねて今に至るという発想も、指摘されれば確かにそうだが、こうして巧みに物語に織り込まれると虚を突かれた感じだ。
 斎藤の作品と言えば、北海道の「食」。順不同に、ニシン(「春の夜想曲」)、白米(「西線11条のアリア」)、そば(「秋のソナチネ」)、カニ(「蟹と無言歌」)ときて(書き漏らしはないかな?)、今回は全国一の産地である豆だ。不作為にできた豆のエピソードが、ラストをいかにもすがすがしいものにしている。
 仲良し3人組は「25年後に開けよう」と校庭にタイムカプセルを埋めていた。その中から出てきたものとは、果たして−。
 題名の「霜月小夜曲」は、3人組アイドルグループのレコード「スキ好きセブンティーン」のB面に入っていた歌。不惑を過ぎて人生の折り返し地点を迎え、これから“B面の人生”を送っていく3人組のその後とは−。老若男女、見る人によってさまざまに想像=創造が広がることだろう。
 斎藤歩、3年ぶりの新作書き下ろし演出とあってか、前売り券売り切れの回が続出(当日券も日によりわずかに出るようだが)。12月1日(木)19時半、2日(金)19時半、3日(土)14時に加えて、楽日3日は18時から追加公演が設定された。
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2011年11月27日

学級出し物プロジェクト

 第6回北海道中学生演劇発表大会が11月27日(日)、札幌市教育文化会館小ホールで開かれ、札幌市立北野台中が最優秀賞、砂川市立砂川中と北海道登別明日中等教育学校が優秀賞に選ばれた。私は審査員3人(ほかに平田修二・北海道演劇財団専務理事=委員長、藤村智子・NPO法人コンカリーニョ理事)の一人として選んだ。最終的に、審査結果は3人の意見が一致した。
 北野台中の演目は「学級出し物プロジェクト」(作竹生東・室達志=顧問創作、指導者竹生、代表生徒桑野むぎほ)で、3年2組の修学旅行での学級出し物プロジェクトを決めるに当たってのクラス内の一悶着を、歌あり演奏ありスタンツありで描いたコメディー。出演した生徒16人の個性が際立っていたうえに、いかにも日常の学校生活であるかのように生き生きときびきびとした動きで描かれ演じられており、文句のつけようがなく素晴らしかった。
 実は昨年、十勝管内清水町立清水中が「俺たちの甲子園」で最優秀賞を獲得した後、自信があったのであろう竹生が「なぜうちではなく、清水中なんですか?」と、平田氏に突っかかった現場に私はいた。もちろん二人とも日ごろから付き合いがあり、仲が良い上でのことである。平田氏は「竹生さんのところの生徒が演じた芝居って、ほんとにいま、竹生さんの生徒が問題意識を持って演じたがっていた芝居でしたか? そうではなく、むしろ竹生さんの考えを押しつけていたのでは」といった旨の疑問を投げ返し、「そうではない芝居ができたら、6月に(演劇財団所有の)札幌・シアターZOOを無料で貸します」とまで言った。それは実現ならなかったが、きょうの芝居はまさに、それを竹生が実践を持って体現した形だったのだと思う。生徒たちが生き生きしていた。
 生徒たちが演劇という手段で本当はなにを発信したいのか? 40代半ば過ぎの私からすれば彼らは確かに幼すぎるし、教育現場のこともよくわからないので決めつけては書けないが、その発信を教師がある道筋に誘導すべきではないと、私も思う。どちらかというと、生徒たちがなにを考え、なにに悩んでいるのか、なにを喜びとしているのか、その心をそっとすくい取って、いくつかの可能性を示してあげるべきなのではないかと思う。
 登別明日中等学校は踊りや歌を交えた演劇的な趣向が巧みで審査員3人一致での優秀賞。もう一つの優秀賞については、私だけ最初は別の中学を挙げたが、他の2審査員から、それはテーマ主義になってしまっていて、演じる生徒たちがそれを伝える駒になってしまっているのではないかとの指摘があり、それよりも、「非常口」という奇抜なものを主人公に人情の機微を描いた物語を生徒が創作した砂川中を推そうとの意見に、最終的に私も納得した。
 審査員の一人がここまで内情を書くコンクールもおそらくは全国でもそうないであろう。まあ、通信簿や官報ではないので、先生方、お許しください。
 出場した各校のみなさん、お疲れさまでした。そして感動をありがとう!
 北野台中のみなさん、本当におめでとう!
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2011年11月26日

舞夢のたまて箱

 札幌ろうあ劇団舞夢 創立30周年記念公演「舞夢のたまて箱〜詞(ことば)の美しさ 詩(うた)の心を紡ぐ〜」(演出すがわらじゅんこ)を11月26日(土)、札幌・サンピアザ劇場で見た。
 今回は物語というより、メンバーによる短編集。与謝野晶子「君、死にたもうことなかれ」(齋藤協子)や宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」(眞鍋秀之)、「しあわせになりたい」(荒木元治)などを手話と顔の表情、体の動きで表現した(手話がわからなくても大丈夫。字幕付き)。感情が十分にこもっていて見ていて実に美しく、また舞台の一カ所にとどまらずに踊るように表現するので、この時点で私は「これは劇団名の舞夢(マイム)のごとく、手話を発展させた新たなパフォーマンスなんだろうな」と思っていた。
 かと思えば寸劇も。「駅前」「地下鉄」は、札幌でもいかにもありそうな迷惑な人たちの特徴をよく捉えたコメディーだった。誤解を恐れずに言えば、「無声」であることが生きていた。懐かしいサイレント映画をカラーの実演で見ている感じで、テンポも切り替えも良く、ろうあ劇団ならではの特長、良いところがうまく引き出されていた。
 帰り際、演出のすがわらに「(先に書いた演目について)あれは手話だけじゃなくて、それプラスアルファの演技ですよね?」と尋ねたら、「すべて手話。手話のまんまですよ」とのこと。「えっ? あれ全部、手話だけなんですか?」と私。手話の動きは見ていて美しいものだとかねて思っていたが、まさかきょうのマイムが手話だけだったとは…。まさに目から鱗が落ちた。
 楽日27日(日)は14時開演。
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2011年11月23日

バッカス・マラカスは誰だ?

 WATER33-39「バッカス・マラカスは誰だ?」(作・演出清水友陽)を11月23日(水)、札幌・ターミナルプラザことにパトスで見た。昨年、ディケンズ原作のTPS「クリスマス・キャロル」を客演出して「札幌劇場祭2010大賞」を受賞した清水だけに注目された一作。まことに不思議な、でもどこか心地良く切ない感覚にとらわれる作品だった。
 あらすじは私がまとめるのは難しいので、チラシから。
 かつて炭鉱で栄えた北海道の町に生まれた女の子。今は札幌に住んでいる。マンションの窓から見える札幌ドーム。月の明かりに照らされて、夜は宇宙ステーション。星と星とをつなぐ線は、空を走る船の道。ある日、女の子は動かないロボットと出会い、宇宙船に乗って神様に会いに行こうと決意した。生まれてから死ぬまでと、生まれてくる前の物語。
 舞台上のあちこちに高さのばらばらな黒い円柱が20本ほど立ち、開演冒頭に赤い紐が下手から出てきて一筆書きのようにするするするとそれらの円柱上の輪をくぐって“世界”ができていく。「星と星とをつなぐ線」だろうか。巧妙な仕掛けだ。
 先にあらすじを書いたが、それを具体的に説明するとなるとこれもまた私の手には余る。5歳のアイ(中塚有里)は札幌・福住に住んでいて、蛇ババア(高石有紀)おばあちゃんと話をして宇宙の上の神様に会いたくなる。炭坑夫(小林テルヲ)おじいちゃんやその仲間のすかぶら(畑山洋子)、ロボット(赤坂嘉謙)が地下鉄に乗って現れたかと思うと、アイの母でまだ5歳のワヲン(中川原しをり)や地獄の番犬ケルベロス(佐井川淳子)、予言するおたまじゃくし(奈良有希子)が現れる−。
 札幌ドームに絡みダルビッシュの名前が出てきたかと思うと江夏(豊=プロ野球・元阪神のエースで日ハムにも一時期在籍した)の名が出てきたり、福住かと思うと夕張だったり、主人公アイとアイを産む前の母親の子ども時代とが一緒に話をしたりと、時空がくるくると変転に次ぐ変転を重ねる。酒も飲んでないのに、なんだか不思議な迷宮に迷い込んだように酔わされる。
 私が思ったのは、「3・11」がなければおそらくは生まれなかった芝居だろうということだ。芝居を貫く太くわかりよい物語は示されないけれども、全体に「生と死」「死と生」のイメージが色濃く漂っている。そのイメージが反映されたエピソードの数々を積み上げてできた芝居だとも言える。
 しかも炭坑夫のおじいちゃんは炭鉱の事故で亡くなったと蛇ババアおばあちゃんは言い、ガス爆発による火災を収めるため炭坑に注水した(坑内にいる炭鉱作業員を見殺しにした)とも明かした。これは1981年10月16日午前0時に発生が確認された北炭夕張新炭鉱ガス突出事故のことだろう(この事故のことは個人的に印象深い。釧路の高校の2年生で、この朝、どこかに見学旅行=修学旅行ではない=に行くバスの中で話題になったのに、女生徒一人だけがニュースを見ておらず知らなかったのだ。最終的な死者は93人)。
 蛇ババアおばあちゃんは自分も死んでいると言う。いったいだれが死者でだれが生者なのか判然としない。そしてそのことは見ていて決して苦痛ではない。むしろ「天上」などという言葉が浮かんできたりする。夢見心地になる。迷宮に入り込んで、いっそ身も心もどこか遠くに持って行かれたい気になる。
 そうそう地下鉄道、宇宙などなど、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のモチーフをも連想させる芝居でもある(今年は「3・11」以降、ほんとに「銀河鉄道の夜」の年だなあと実感する)。
 清水の新作は、昨年に客演出した「クリスマス・キャロル」の細部の詳細な見せ方にこだわった劇作とは違ったが、一種独特の魅惑的な渋い光を放って私の心に切ない灯をともした。
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2011年11月20日

夢〜You−Me〜

 ダンススタジオマインド(舞人、宏瀬賢二主宰)30周年記念・宏瀬賢二45周年記念公演「夢〜You−Me〜」を11月20日(日)、札幌市教育文化会館大ホールで見た。ゲストも多彩で、私の知る名前では元宝塚歌劇団の夢輝のあ、コンドルズ主宰・振付家の近藤良平が出演した。得した気分だ。
 ダンスは言葉がなくて変にいろいろ考えなくていいせいか、演劇以上に心が解放されることがある。私にとっては、とにかく楽しむだけでいいという感じだ(時には重いテーマのダンスもあるけれど、それでも見ていて解放される)。マインドのダンサーたちの軽やかで切れがあって伸びやかな踊りを見ていると、本当にそれを実感する。間に休憩15分を挟んで、1、2部合わせて3時間ぴったり(休憩除く)の長丁場だったが、飽きることはなかったし疲れもしなかった。
 メイド姿のセクシーな女性ダンサーたちの踊りで開幕。私は風蝕異人街を思い出しちゃった。

 夢輝のあは映像インタビューで「マインドに通って宏瀬先生に習ったことがあります」と話していたけれど、いつ、どこでのことだろう? 踊りは少しだけで、ベット・ミドラーの映画「ローズ」の主題歌や宝塚の「ベルサイユのばら」劇中歌「愛あればこそ」など3曲を歌った。やはり、ほかにはない華がある。
 近藤良平は新作「私は、そのラクダにのります。」を披露。振り付けを考えていた時にNHKテレビの「アラビア語講座」でその言葉を教えていたことからの命名だという。以前コンドルズの公演を見たことがあるが、彼振り付けの踊りは9割方ユーモアでできているんじゃないだろうか。でも近藤自身は長い手足を伸ばして踊ると、本当に鳥のコンドルのように鋭い(実はコンドルの動きが鋭いかどうかはわからないのだが)。
 ラストは宏瀬こと藤間瑛章構成・振付の「夢のあと−小野小町抄−」。銀色の着物を着た宏瀬がしっとりと踊る背後に、映像で小野小町の歌5首が投映され(書・金久保天翠)、最後には桜の花びらが音もなく散ってくる。そこには宏瀬自身の死生観も反映されているようで、見応えがあった。公演全体がぐっと引き締まった。私は劇団北芸(釧路)の名作「この道はいつか来た道」(作別役実、演出加藤直樹)を思い出した。
 フィナーレはいつものマインド公演ほど絢爛豪華という感じではなく、さりげなく控えめ。渾身の踊り「夢のあと」の余韻が大切にされた感じだった。
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2011年11月19日

海辺の日々

 まずは前項の訂正から。「狼王ロボ」で「民族楽器」とあるのは「民俗楽器」の誤りでした。訂正します。
 弘前劇場(青森)「海辺の日々」(作・演出長谷川孝治)を11月19日(土)、札幌・シアターZOOで見た。
 あらすじはいつにも増して要約するのが難しい気がするので、パンフレットからそのまま掲載する(配役は私が入れた。名の後の数字は年齢)。
 とある地方の日本海に面した海辺の街。地方新聞社の支局とは名ばかりの小さな通信局がある。そこに駐在しているのは一人の新聞記者(岡村道彦49=高橋淳)とその妻(貴子39=小笠原真理子)。記者は警察回り、役所回り、学校回り等々のルーティンワークを一人でこなしている。そこにはスクープというものは滅多に存在しない。赴任当初、記者はあまりにも何も起こらない地域にウンザリしていた。そこには地方政界のスキャンダルも企業の倒産も、陰湿ないじめをひた隠す学校もない。日々は淡々と過ぎていくだけである。だが、日々の生活を地域住民と過ごす中で記者の価値観は次第に変わっていく。そこには天下国家や国際経済を論じる場などはないが、なによりも人が生きているではないか。支局を訪れる様々な市井の人々と新聞記者夫妻が織りなす「それぞれの生き方」から、日常に横たわる「小さいけれど大きな問題」すなわち、この日々をどうやって生きていくのかを、日本の混乱した現状と重ね合わせつつ丹念に描き出していく。
 出演はほかに岡村の娘・大学生美智子20(寺澤京香)、本社社会部記者上村良介35(青木峻)、貴子の兄・前町長稲垣健一55(福士賢治)、町・総務部長原田三郎62(長谷川等)、農業久道毅30(林久志)ら。
 岡村は通信局勤務が3年目で来月異動になり、後任が上村との設定。岡村の異動先は明かされない。岡村家で飼っていた雌猫「さくら」が行方不明になって5日間、いるのが当たり前だった存在がなくなり、家族に波紋が広がっているところから物語は始まる。
 「東日本大震災」と固有名詞こそ出てこないが、それがあっての、その後の物語だ。さくらの失踪は岡村家には大事件だが、いわゆる劇的な大ごとは観客が目にする“舞台上では”起きない。一日の小さな、ごく小さなエピソードが積み重ねられる。
 そこに、平凡な日常への限りない愛おしさが編み込まれる。「3・11」後の長谷川の人生観を反映してもいるであろうその独特の静けさ、観照の表現は心憎いほどに巧みだ。岡村とは同業で年齢もさほど変わらない私は、感じ入った。
 この街は「3・11」ではさしたる物的被害はなかったものの、被災地に近く、知人が亡くなっただとかの心的被害を受けた人は多いのだろう。そうした人たちへの尽きないやさしさが物語の底を流れている。
 楽日20日(日)の開演は14時。
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狼王ロボ

 劇団千年王國「狼王ロボ」(原作アーネスト・T・シートン、脚本・演出橋口幸絵)を11月19日(土)、札幌・サンピアザ劇場で見た。橋口によると、原作には手を加えていないとのことだが、劇場空間をいっぱいに生かして使い、民族音楽の生演奏とダンサーを交えた創意工夫の劇作がとにかく面白く素晴らしく、上演時間80分があっという間だった。
 1893年の米国ニューメキシコ州コランポーは牧場の牛がハイイロオオカミに襲われて困り果てていた。イエロー(櫻井ひろ)、ジャイアント(高久絢斗)、メスのブランカ(堤沙織)を率いるのは、人々に「魔物」と呼ばれて恐れられ、並外れた知性を持つ古狼ロボ(鈴木明倫)。その首には多額の賞金が掛けられ、大勢が銃や毒薬で挑むが、みなロボの知性の前に失敗する。そこで請われたのが博物学者シートン(赤沼政文)。牧場主(村上水緒)とその妻(榮田佳子)の協力を得ながら、シートンとロボとの命を懸けた壮絶な“知恵比べ”が始まる−。
 客席前方を外して舞台を張り出させ、客席下手にも高みに舞台を設置、さらに客席中央にも細長い舞台を横切らせるという設え。正面舞台奥には高い雛壇があり、広大な荒野を見下ろす山並みを表現する。
 狼たちのダンスを交えた動きがスピーディーでダイナミック(鈴木、櫻井は本来ダンサーだが、高久、堤も遜色はなかった)。台詞は一切なく遠吠えするだけだが、舞台狭しと駆け回り、時に整然と群れる様子を見ているうちに、大自然への畏怖を感じさせる。素晴らしい動き、まさに唐十郎言うところの「特権的肉体」だ。
 赤沼、村上、榮田の3者はあらすじで紹介したほかに、それぞれ4〜7種もの役を演じて大忙し。その早変わり自体もそうだが、変わるきっかけなども見ていてなんとも楽しい。観客がある役になって参加する場面もあって、それは観劇してのお楽しみ。影絵や照明を使った表現の工夫、数々の小道具も気が利いている。
 よどみなく進む物語の楽しさ、時にかなしみを余すところなく表現し増幅するのが、いまやすっかり千年とのコラボが定着した福井岳郎、有本紀、小山内嵩貴による民族楽器の生演奏だ(作曲福井・さとうしほ)。
 実はこの作品、橋口の出身地である宮崎県の県立芸術劇場から「子供と、かつて子供だった大人のための名作文学を題材にしたお芝居を作りませんか?」と誘われたのが制作のきっかけだそう。その依頼には十二分に応え得た名作であり、名演出だと思う(宮崎公演は来年1月28日)。少なくとも私は80分間、すっかり童心に帰った。楽しく、最後には自然の尊厳、そして畏怖を感じさせる芝居だった。
 開演は19日(土)19時30分、20日(日)13時、21日(月)19時。
 それにしても、これほどの芝居が札幌で6ステージと宮崎で1ステージとはもったいない。エゾオオカミを絶滅させた結果、エゾシカの増加に悩む北海道の自治体ででも招けばいいのにな。某劇団のライオンなんとかより、よっぽど創意工夫が感じられるように思う。
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2011年11月18日

幸せ最高ありがとうマジで!

 北翔大学 北翔舞台芸術3年目公演vol.2「幸せ最高ありがとうマジで!」(作本谷有希子、演出村松幹男=教員、シアター・ラグ・203代表)を11月18日(金)、札幌・北方圏学術情報センターポルトホールで見た。
 ある町の曽根新聞店。曽根慎太郎(川口岳人)が社長で妻・美十理(夏目静香)、息子功一(桑名勇輝)、娘紗登子(斉藤亜耶)、住み込みのアルバイト山里えいみ(佐々木茉莉)が働く。慎太郎は1年半前に妻に逃げられ、その半年後に美十理と結婚した。紗登子は彼女の連れ子だ。
 慎太郎が集金中の留守に、彼と7年間愛人関係にあるという明里(市川薫)が突然現れ、店内にある新聞をまき散らすなど荒らしまくる。大混乱する美十理と子どもたち。ようやく店の外に追い出された明里を、えいみは「私と同じにおいがする」と言い、店に隣接するプレハブ小屋の自室にかくまう。
 実は明里が慎太郎の愛人というのは狂言だった。そして、えいみこそがバイトの歓迎会の後に慎太郎に強姦されたのだった。そこへ帰ってくる慎太郎。誰にも予想できない、それぞれの復讐劇が始まる−。
 あらすじを書くとサスペンスかスリラーめくが、コメディー的要素たっぷりのエンターテインメント。新聞店の舞台装置もしっかり作られており、期待が高まった。
 結論を言えば、見応え十分だった。初舞台の役者もいたようだが、それぞれ個性が際立っており、生き生きと感じられた。だれより村松が楽しんで演出したんだろうなという感じがした。
 胸に一物ある役をそれぞれ演じた市川と佐々木がある意味でよい対照をなしており、心に残った。それから、ちょっと頭が軽い感じの功一役の桑名も好演。見ているうちに功一を応援したくなった。
 考えてみたら、今年4月29日(金)に見たvol.1「薔薇十字団・渋谷組」(作清水邦夫、演出村松)に市川と川口は出ている。それからずっと成長した。
 物語は、明里が鋭い切っ先を観客に突きつけるように終わる。市川はこのまま精進すれば、きっと良い女優になるだろうなあ、なってほしいなあと期待する。
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2011年11月13日

第5回さっぽろ学生演劇祭

 札幌圏の大学生や短大生、専門学校生らによる「第5回さっぽろ学生演劇祭」を11月13日(日)、札幌・サンピアザ劇場で見た。
 1本目、「フレンズ」(脚本・演出米澤春花)。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」がモチーフの芝居だ。あらすじをおおまかにざっと−。
 高校3年の清水圭吾(牙山龍)と優(タキケント)、竹屋タケシ(古川陸)、大谷圭介(知久貴大)、阿部ゆうな(佐藤香菜)、菅野海(竹内友麻)、大月青葉(細谷史奈)は仲良し7人組。一緒に星空を眺めたりして友情を深める。「銀河鉄道の夜」の愛読者でいつかその鉄道に乗りたいと願っている優はゆうなが好きで、その思いを告白する。けれども実はゆうなが好きなのは圭吾だった。卒業式を前に、優が交通事故で死ぬ。悲嘆に暮れる6人。
 それぞれの進路を歩んで4年後、圭吾が軽い脳腫瘍で入院する。見舞いに訪れるゆうな。いつしかそこは圭吾の夢の中になり、圭吾もゆうなもほかの4人の仲良し組もみな銀河鉄道に乗っているのだった。優に借りたままだった「銀河鉄道の夜」の文庫本をゆうなと読む圭吾。そこに現れた車掌は優だった。念願かなって銀河鉄道の職員になれたのだ。銀河ステーションに降り立ち、宇宙の不思議を実感する彼ら彼女ら。ふと気付くと病室に戻っており、圭吾は危篤状態。実は脳腫瘍は重いものだった。愕然とするゆうなら5人。夢か幻か、そこに現れる優。優は銀河鉄道にどこまでも乗り続けられる切符を圭吾に渡し、自らの短かった命のバトンを託す。
 時折笑いを交えながらも、全体的に落ち着いてしっとりとした丁寧な作り。悲しみが覆う場面から希望が浮かび上がるシーンへの転換も自然で、わざとらしくも嫌みもなく、じんわりと心に染み込んできた。「銀河鉄道の夜」の物語や構造を巧みに芝居に織り込んでいて感心した。
 劇中で生徒たちが歌う「ビリーブ」という歌、私は聴いたのが初めてでユーチューブで聴き直したが、なるほどこの選曲はこの芝居にぴったりだ。かと思えば、生徒たちはフィンガーファイブの曲で踊ったりもして、ひと世代は違うはずなのに(つまり、私の世代です)、すごいなあとも思った。高校時代から4年後への場面転換の部分など、遊び心も取り入れていて面白かった。
 続いて「レターズ」(脚本菊池蘭童、演出米澤春花)。なんと演出はこちらも米澤だ。芝居2本同時平行演出なんて…すごい。
 シスター有藤(佐々木志乃)が10年前に開設した“孤児院”に、新聞記者鷲尾(村野眞理)が取材に来る。そこには両親がいながらも、異能を持ったばかりに持て余された13〜19歳の子どもたち(上西佑樹、坂内泰輔、齊藤幸歩、加藤郁香、諏訪亜季妃、上松遼平、新松未紅、白鷺桜優、赤野佑多、飯田愛実)がおり、みな、チェス日本一やパソコンゲームの開発、時計がなくても正確な時間がわかる、超有名アイドル、心理学の博士号取得、一方が見聞きしたことがもう一方にもわかる男女の双子などなど、異能に応じたCとかSとかPとかのアルファベットで呼ばれている。彼ら彼女らは有藤を「ママ」と呼ぶ、不思議な疑似家族なのだった。
 だが、有藤は開設後まもなく抱き始めたある拭いがたい思いから“孤児院”の閉鎖を決める。泊まり込みで子どもたちに取材し、すっかり感情移入した鷲尾は、有藤の決意を察し、“孤児院”の存続を図るある計画を子どもたちと実行する−。
 子どもたち(といっても、けっこうみな大人っぽい)はおおむね明るいし人見知りなどしないのだが、“孤児院”自体が凡人世界とは隔絶された立地の雰囲気があって、芝居全体に漂う一種独特な不思議な空気感に魅了された。観客が鷲尾の取材とともに、その理由を深く知っていくという仕立ての作りで、次はどうなっていくのかとわくわくしながら見ていた。
 ラスト、鷲尾が企画した計画は、“孤児院”がなくなると困る子どもたちというよりも、むしろ有藤を心の葛藤から救うものであり、10人の子どもたちがそれまではなかなか有用に使えていなかったそれぞれの異能を発揮しながら実行していく姿は、見ていて実にほほ笑ましかった(このあたり、その世代である私などは石ノ森章太郎のSF漫画「サイボーグ009」を思い出したのだったが、作者の菊池は知っていただろうか)。
 と、立て続けに2本見て疲れはしたが、どちらも芝居として十分な水準に達していて、心地良い疲れだった(私が札幌劇場祭の審査員を務めていた時には、芝居のあまりの低レベルに、本当に心底疲れたことがあったからなあ)。それにしても昨年の劇場祭で新人賞を獲得した「ハイパーリアル」(作・演出は現・劇団アトリエ主宰の小佐部明広)といい、年々水準は上がってきているのではないだろうか。10近くもの違う学校の学生たちが時間を調整しながら稽古場を確保して芝居をつくるというのは大変だと思うが、上演し終えた後の達成感はそれゆえにこそ格別なものだろう。今後にも大いに期待する。
 良い芝居を見せてくれてありがとう! また来年も期待しています。
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ばらひまわり

 ANDの解散公演「『ばらひまわり』 よいと悪いのまんなかでキッス」(作・演出亀井健)を11月12日(土)、札幌・ブロックで見た。
 就職活動中の尾瀬正午(亀井)はクラブのオーナー兼DJ横山めでる(八戸卓哉)と同居。朝の散歩が趣味で、過去に彼女を殺された体験を持つ。出会い系で知り合った少女A(屋木志都子)を性的な意味でなく弄んだり、めでるの友人で14歳で父を殺した幻想に苛まれている氷上岳蔵(長流3平)と出会ったり。そんなある日、めでるがクラブに来た果樹(小原綾子)と付き合い始める。直後にめでるは消息を絶つ。正午は一人になる。
 結婚願望のある丸山由里子(ナガムツ)は妹・幸(新井田琴江)と同居。相手がいるのかいないのか、ウエディングプランナー(赤谷翔次郎)のもとに熱心に通う彼女には、時折顔のない青年(岡村智明)が見える。彼女は実は職を辞め、高利貸の中神清志郎(高井ヒロシ)から多額の借金をしていた。「これ以上は貸せません」という中神からある日、なぜか「今度おごるから飲みに行きましょう」と誘われる。だがその後、中神からその日は飲みに行けないとの連絡があったのにもかかわらず、公園で彼を待ち続ける。
 朝の散歩で公園に来た正午が由里子と出会う。一緒にシーソーで遊ぶ。いなくなった男を捜す男と、来ない男を待つ女。人生が一瞬、交錯する−。ダンススタジオマインド(舞人)のダンサーがゲスト出演している。
 物語の始まりは2011年3月11日。いうまでもなく東日本大震災の起こった日だ。大震災に直接絡むエピソードも出てくる。観客によっては不謹慎と思われかねない表現も出てくるが、それは表面上のことだと私は思う。むしろ狂おしいほど切実に、「人がなぜ生きて、愛し合い、死ぬのか」(亀井)を、亀井なりに手探りしているのが伝わってくる。
 失ったもの、失われたものへの愛しさと悔悟をかみ締め、失われた命への鎮魂がある。その先に、けれども希望だけは捨てずに生きていてほしいという願いがある。
 ラストは、毒と皮肉と愛と優しさを持ち合わせるロマンチスト亀井らしく、激しい動の後の静謐な閉幕。ANDは終わった。
 ANDは1997年に旗揚げ。亀井の直接的で詩的な言葉、装飾過多とも思える舞台装置、時に意味不明だが必死な動きなど、他のカンパニーがまねしようにもまねできない、良くも悪くも(失礼)独特の癖を放ち、演劇界以外にも多方面にファンを獲得していた。
 ANDなき後、このANDのような、一度見たら病みつきになるテイストはどこに求めればよいのだろう。ANDの解散、つまりは観客にとっての喪失は、想像以上に札幌演劇界にとっては大きいことに私には思える。  開演は13日(日)15時、14(月)、15(火)の両日は20時。
 11日(金)から5日間、1日1公演ずつで、なんだかもったいない気がするが、これにはある深い訳がある。それこそは見てのお楽しみだ。ANDのラストにふさわしい終焉、とだけ書いておこう。
 亀井よ、ANDのメンバーよ、豊かなイメージの広がりをありがとう! またいつか、どこかで…。
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2011年11月12日

プラセボ/アレルギー

 イレブン☆ナイン「プラセボ/アレルギー」(作・演出納谷真大)を11月12日(土)、札幌・コンカリーニョで見た。
 下町の工場。工場長おざわいちたろう(納谷。パンフレットに配役表がなく、私が観劇しながらメモしただけなので、いくつか間違いがあるかもしれないが、ご容赦ください)と妹つきこ(今井香織)、15年以上務めるベテラン従業員おかだいさむ(江田由紀浩)、はとやまふさえ(小島達子)、のだやすお(本吉純平)の5人が働く。工場長はつきこと“娘ハナコ”(児玉由貴)と暮らす。やすおは頭を怪我してから言葉をうまく話せないが、ハナコとだけは自由に会話できる。工場には従業員から“きゅうこん”とあだ名を付けられている取引業者まるかわまるお(野村大)・マチルダ(小林泉)夫妻もよく出入りする。
 工場では春から秋まで季節工を雇う。毎年3人だが、今年は、元妻の父が興した会社社長を辞めさせられた、すのはらしゅうじ(杉野圭志)をはじめ6人(ほかの5人=生水絵理、石川藍、塚本智沙、白鳥雄介、能登屋駿介)がやってきた。
 男性陣の大大富豪大会(カードゲーム)、女性陣の女子会で親交を深める労働者たち。夏の一大恒例イベントは工場長のおごりのバーベキュー大会だ。そんな中、この下町の工場になんと米国のある国家機関から発注が入る。工場長は特許取得に急ぐ。だが一方で、ある男女の秘められた恋愛話や、工場長を裏切ろうとする陰謀も影を落とす。いつもより多い数の季節工が来た今年は、人間関係が徐々に良くない方へ変容し、これまでそれぞれが我慢していたものがむき出しになってくるのだった−。
 工場内を表すイントレが並ぶ無機的で印象的な舞台装置。役者たちはイントレばかりか、キャットウオークまで上り下りするなど、見ていても大変な忙しさだ(よく稽古されており、危なっかしさは感じない)。役者の出し入れは頻繁だが、物語の骨格がしっかりしているので、戸惑うことはない。それだけ筋の運びが巧みだ。
 舞台装置こそ無機的だが、演技は熱っぽさと汗、唾がいっぱい。最初は笑いを交えた人情ものかと思えたものが、中盤以降、サスペンスの様相を帯び、見ているこちら側もどんどん熱くなっていく。
 ある懐かしさをたたえたラストシーンを見終えた後、自分の幸せ、保身しか考えない身勝手な登場人物へのやり場のない怒りや、妹の幸せを最優先するために工場長がなした重大な決断など、なんとも言えないしこり、やりきれない切なさが心に残る。こういう終わり方は、後からボディーブローのように効いてくる。じわじわねちねち効いてくる。
 観客は年齢層が多彩で、カンパニーの人気の高さをあらためて実感した。
 開演は13日(日)15時と19時(アフタートーク付き)、14日(月)20時。
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2011年11月11日

テンプテイション

 弦巻楽団「テンプテイション」(作・演出弦巻啓太)を11月11日(金)、札幌・シアターZOOで見た。
 蝉丸島小の校長藤原家定(松本直人)が(命が)もう長くはないという内容のメールが届き、彼が顧問を務める同小かるたクラブのOB、OG(20年以上前に卒業した27期生)が「恩師危篤!」と久々に島に集まる。河原融(潮見太郎)・千里(森田亜樹)夫妻をはじめ紀伊祐子(栗原聡美)、佐京顕輔(小松悟)、宇野さらら(長岡登美子)、天野智(弦巻)の6人だ。学校に来てみると、藤原はぴんぴん。メールを送ったのは自分ではないという。だが藤原は昔から「嘘つき」で有名だった。はたして今回はどうなのか?
 同小では事務員の清原凪子(斎藤もと)も20年以上たっても元気。相変わらず学校の七不思議にかこつけて、児童たちを怖がらせるのを楽しんでいる。藤原が元気なので、来た意味がなくなった彼らだが、同小に泊まって昔同様、百人一首を楽しむことに。また独身の彼らの中には思わぬ告白をする者も。そんな中、6人と同じ学年でかるたクラブの一員だったが、6年生の時に亡くなった坂上和泉の弟正則(吉原大貴)がやって来る。「姉を殺したのは、あなたたちでしょう? 姉の死の真相を教えてください」−。出演はほかに同小教員役でトマト。
 物語はチラシ記載の内容から変更されたらしい。
 あらすじを記すとサスペンスのように思われそうだが、実はどちらかといえば人情ものだ。それも、意外にもあっさりとした味付けの。弦巻楽団といえば速射砲のように繰り出される台詞の掛け合いや役者の動きなど、スピーディーかつスタイリッシュな印象が強いが、今回は島の小さな小学校での一夜という設定もあってか、比較的ゆったりとした時間が流れる。コメディー色もそれほど強くはなく、かつてなく淡彩的な味わい。
 良く言えば弦巻の新たな作風への挑戦であろうが、それにしてはもう少し二の矢、三の矢があっても良かったかなとも正直思った。明記しないが、上演時間が予想していたよりずっと短かったのだ。役者では、長岡の気の利いた演技がいいなと思った。
 劇中、目を引くのが、小学校を長年見守ってきた大木。彼ら彼女らの心のふるさとを象徴する大木だ。それは舞台奥に墨絵で表現されており、滝川在住の墨絵師杉吉貢の手になるもの。これだけを見ても、観劇する者になにかを感じさせられる素晴らしい作品だ。
 開演は12(土)、13(日)両日は14時と19時、14(月)、15(火)両日は19時半。
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2011年11月07日

トランス・続

 きのう、「座・れら」の「トランス」(作鴻上尚史、演出(指導)鈴木喜三夫)について、「役者3人がとにかくうまく」「心落ち着けて見られた」「最高レベル」の「100点」なのに「私にはいまひとつ物足りなさが残った」と書いた。「『物足りない』というのは、実はまったくの言語矛盾かもしれない」とも付け加えた。
 それは本当に正直な気持ちだ。でも、「物足りない」という言葉はやっぱりちょっと違うのだとも思う。それでは、この私の心持ちはいったいなんと表現すればいいのだろう、より正確に「演劇病」の読者の方々に伝わるだろう、なによりそうした心情を抱いた自分を納得させられるだろうと、ブログにアップされた自分の劇評を読み返しては、ずっと考え続けてきた。
 きょうのいまになってふと思い当たったのが、私が自分勝手に抱いた「居ずまいの悪さ」という感じである。
 それはどういうことかというと、「座・れら」の「トランス」は、冒頭に書いたように、私が傲慢にも点数を付けさせていただくならば「100点」なのである。それは確かだ。とにかく芝居がうまく巧みに完成されている。隙がない。そうなのだ、批評する取っかかりともなるような隙、あるいは傷−また痕と言ってもいいだろうか−が見当たらなかったのだ。それだけ緊密に出来上がっていた。
 そこで、私が勝手に一方的に抱いてしまったのが、「物足りなさ」改め「居ずまいの悪さ」だったのではなかろうか。
 つまり、私が小劇場演劇や小劇場カンパニーを30年近く見続けてきて、それらにはあって当然と勝手に思っている、また思い続けてきた、時によっては自由度、開放性といった良い方向につながる可能性もある粗削りなもの、ルーズなもの、雑然さ、といった表面的には否定的に捉えられかねないもの、あるいは(私はいま自動車を保有していないのでオートマチック車については分からないが、かつて所有し運転していたマニュアル車のアクセルにはあった、それと同様の)一見無意味とも思えるけれども小劇場演劇・カンパニーならではの“遊び”のテイストが感じられなかったということである。念入りで熟達した演出と、見事なまでの演技の一方で、私が感じてきたそうした小劇場演劇ならではのテイスト、ニュアンスが周到に摘み取られていた感じがして、私は「居ずまいの悪さ」を抱いてしまったのだと思う。
 つまり、ある意味でごった煮的な雑然さやルーズさも許容する小劇場演劇のテイストとは対照的な、どちらかといえばびしっと厳格に理論的に構築された新劇的な手法で表現され、きっちりと決まりすぎなほどに決まっていた「座・れら」の「トランス」の完成形、そして完成度のあまりの高さに、私は戸惑い、ある種の「居ずまいの悪さ」をも感じてしまったということなのだろうと思う。いま言えることはそこまでだ。
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2011年11月06日

トランス

 「空の記憶」で「札幌劇場祭2010」特別賞(作品賞)を受賞した、在札ベテランのプロ演出家鈴木喜三夫率いる「座・れら」の「トランス」(作鴻上尚史、演出(指導)鈴木)を11月6日(日)、札幌・サンピアザ劇場で見た。
 主宰する第三舞台(ああ、私の大学時代、青春のカンパニー!)の封印解除&解散公演を控える(とにかく楽しみ!)鴻上の1993年初演作。滅多にサインをしない鴻上には珍しい、この作品のサイン入り戯曲本を、私は持っている。私はこの作品の鴻上演出のご本家版は見ていないから、きっとほかの鴻上作品を見た時に、サインがしてあるという理由だけで買ったのだろう。なんともミーハーである。
 閑話休題。
 立原雅人(初演・小須田康人)役の信山E紘希、紅谷礼子(同・長野里美)役の玉置陽香、後藤参三(同・松重豊)役の前田透が客席通路から舞台に上がる。椅子の上に置かれた白衣に3人が同時に手を伸ばし、わずかに早く紅谷が手にしてそれを着る。紅谷が精神科医になったのである。と、のっけから、鴻上お得意のメタシアター(私なりの定義では「演劇とは何かを考えさせる構成の演劇」)である。
 勤務医の紅谷の診察室に雅人が訪れる。2人は高校時代の友人で、久々の再会である。彼は自分の精神が病んでいると言い、「離人症かな?」と告げる。何日おきかに通うことになる。
 おかまバーでぼったくられた雅人を助けたのは、そこのおかまホステス参三である。雅人を彼の自宅に参三は送り届ける。ぼったくられた財布も取り返してきている。それから参三は雅人の身の回りの世話をし始める。2人も高校時代の友人で、久々の再会である。つまり雅人と紅谷と参三は高校時代の友人である。
 雅人の精神の病が進行する。ついに彼は自分を南朝の天皇であり、皇居に行かなければならないと言い始め、紅谷の病院に入院させられる。紅谷が診察し、参三は世話を焼く。物語はさまざまに紆余曲折する。実は精神を病んでいるのは紅谷なのだと。または参三なのだと。でもやっぱり雅人なのだと。これも鴻上お得意の物語の変容に次ぐ変容である。−ざっとそんな筋立ての作品である。
 信山、玉置、前田の役者3人がとにかくうまくて、驚いて舌を巻いた。それは台詞の発し方一つ、ちょっとした動作一つで分かる。見よう見まねや試行錯誤で自分流を編み出して劇作している(もちろん、そうするしかないという事情も分かる)あまたのカンパニーの演出家の演出とはまったく違う。きちんと確立された理論に基づいた、プロである鈴木ならではの訓練のたまものだろう。
 だから心落ち着けて見られた。そして唯一、そこでこそ、私にはいまひとつ物足りなさが残ったのだった。「物足りない」というのは、実はまったくの言語矛盾かもしれない。もう十分に最高レベルなのだと認めているのだから。ただそれが、あまりにもうまく、研ぎ澄まされて完成されたうまさなのである。角張っていない、丸く小さくきれいに彫琢された見やすさなのである。
 それゆえ小劇場演劇、中でも私の青春の一ページで思い入れのある鴻上の芝居としては、失礼ながら独断と偏愛に満ちた劇評を書く私にとっては、それが「物足りなさ」という言葉になってしまうのかもしれない(単なる私の語彙不足もあろうけれど)。小劇場演劇、なかんずく鴻上の芝居にあっては、ぎざぎざ角が尖っていたり、ささくれ立っていたり、時には破綻の芽があったりしてくれていた方が、心に染むのである。目の前で繰り広げられる役者の肉体と言葉から、汗と唾から、その向こうにある、表立っては表現されない叫びのようなものが見え、聞こえてくるのである。
 鈴木と3人の役者たちによる、長大な時間をかけたであろう解釈と実践は、それは素晴らしいものであった。言わば100点である。けれども、先に書いたようなひねくれものの私には、たとえ30点ではあっても、劇場という閉ざされた空間を突き抜け、突き破り、私の中にぐんと刺さり込んでくる何かが見たかった、という、単なるないものねだりだけなのかもしれないが。
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2011年11月05日

蒸発

 intro「蒸発」(作・演出イトウワカナ)を11月5日(土)、札幌・ターミナルプラザことにパトスで見た。実験的精神に溢れた前衛的な意欲作。ただそれだけに、好き嫌いは分かれるかもしれない。
 お母さん(宮沢りえ蔵)の家は、あちこちで雨漏りがしている。でもお母さんは雨合羽を着て、雨漏りは気にしていない。家には“人面犬”の上杉さん(のしろゆう子)がいる。次男のりょうちゃん(高田豊)、ゆきちゃん(菜摘あかね)夫婦が久々に訪れると、長男のサトルくん(佐藤剛)も来ていた。彼らの従兄弟(お母さんの姉の息子)のあっちゃん(菊地英登)も母親に反発して家出して来ている。そこへ、りょうちゃんの幼なじみで隣家に住むスマくん(大高一郎)も来た。たった一人、ここにいないのは誰? サトルくん、りょうちゃんの妹のみーちゃん、だったっけ?−。
 役者たちは時にぶっきらぼうに、無機質的に、無感情に台詞を話す。そして時に意味の分からない、いや、意味などないかもしれない、むしろダンスとも言える動きを繰り返す。
 そこで浮き彫りにされるのは、家族の解体、というより、たしかに「親子」ではあるものの、「家族」のあらかじめの不在である。物語がよりどころなく、誰かの台詞、動きによって、あてどなくずれていく、裏返されていく、そして、妹のみーちゃんなんていたっけ?…などと変容していく、ある意味で、コミュニケーションが希薄な現代そのものの縮図である。なにより、灰色の床や壁に、真っ白な鍋やバケツややかん、馬鹿でかい電話機などが並ぶ無機質的な舞台装置がそれを象徴する。
 これは、私が思うところ、ワカナが周到に念入りに観客の「感情移入」を排するべく施した演出である。だから、私は「感動」はしなかった。情ではなく、むしろワカナの理知的な冴えに喝采をおくった。観客は、舞台上に繰り広げられる、温もりのない、冷たいとさえ言える芝居に感情移入して情を動かされるのではなく、むしろ我が身を省みるのではなかろうか。そうなった観客がいれば、ワカナの思うつぼと私は思った(少なくとも私はその一人だ)。
 開演前から、舞台上に散らばって置かれた鍋ややかん、バケツに、雨の滴が一滴一滴、ぽつん、ぽつんと滴り落ちている。その音が、静まりかえった劇場に、鼓動のように聞こえる。コンピューターグラフィックス(CG)頼りの映画やテレビではない、演劇ならではの醍醐味である。ああ、きょうは成功して良かったなあと思う、“ざぶ〜ん”もある。誰がか、どこかは伏せる。
 好き嫌いはおそらく分かれるだろう。けれども、それゆえにこそ、演劇ならではの表現を体感できる芝居である。札幌にも、こういう芝居があっていい。
 開演は6日(日)14時・18時、8日(火)は休演で、それを挟んだ7日(月)〜11日(金)が20時、楽日12日(土)は14時。
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忘れたいのに思い出せない・2011

 yhs「忘れたいのに思い出せない」(脚本・演出南参)を11月5日(土)、札幌・シアターZOOで見た。昨年7月に同劇場で上演された作品の改訂再演だ。
 劇団HPでの物語紹介に手を加える形でざっとあらすじを−。
 認知症を抱える吉田センリ(福地美乃)は1月17日で米寿。彼女はベッドに寝たきりで、自分の部屋を「庭」だと思い込んでいる。認知症が進行しているのだ。センリを自宅介護しているのは、大学講師の一人息子ガンマ(小林エレキ)、そして彼の前妻の連れ子であるトオル(岡今日子)の二人。ガンマは実母の認知症にショックを受け、なすすべが分からずにいる一方、トオルは血の繋がらない“祖母”であるセンリを大切に思っている。そんな中でトオルが妊娠。シングルマザーとして生きていくことを決意する。しかしそんな間にもセンリの認知症は進行する。センリが見る夢には時折、約30年前に他界した夫マサヒコ(齊藤雅彰)が出てくる。家族はホームヘルパーを頼むことにした。やってきたのはトオルの元カレで妊娠させた張本人のゲンブ(櫻井保英)と、彼の中学時代の同級生でいじめられっ子同士だったマスト(三戸部大峰)だった…。出演はほかに曽我夕子、青木玖璃子、京極祐輔。
 実に良い芝居を見たなあと、熱いものが胸にこみ上げてくる。説明しすぎるのではない、寸止めの劇作が、見る側の私にさまざまな思いを去来させるのだろう。
 昨年7月10日付の初演劇評では、ホームヘルパーのエピソードが物語全体の焦点をぼやけさせた…云々と書いたが、今回は改訂もあってか、その部分がしっくりはまって感じられ、生と死への思いを深くしたのだった。
 福地が−彼女のうまさについては何度も何度も書いているが−凄まじいほどに素晴らしい。芝居の時間が経つにつれて、認知症の老女センリがまざまざと立ち上がってくる。
 初演の演出は南参ではなかったが、やはりこの物語は南参ならではのもので、彼の演出あってのこの広がり、深まりなのだろう。なんでも初演が終わって5日後に娘が生まれ、今回の再演の稽古が始まって11日後に曾祖母(南参の娘さんから見れば、100歳離れた高祖母)が亡くなったそうである。
 劇場には意外なほどにご高齢の観客が多かった。実際に介護や認知症の家族をお持ちでご苦労されている方も多かったのではないだろうか。
 はっきり書く。昨年の「しんじゃうおへや」と同様、必見の芝居である。
 開演は5日19時も。楽日6日(日)は14時。
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2011年11月04日

北の映像ミュージアム、来館者続々・続

 前項で書き忘れたが、「北の映像ミュージアム」について、9月のオープン時にセレモニーでのテープカット及び映画上映会でのトーク「高峰秀子とその魅力」をされた評論家、川本三郎氏がキネマ旬報11月上旬号(表紙は三谷幸喜)のコラム「映画を見ればわかること」で、「『探偵はBARにいる』のこと、北海道のこと、『挽歌』のこと」と題して紹介されている。影響力のある雑誌でファンの多い川本氏の文章に載ったなんて、いきなり全国区になったみたいだ。ありがたいことです。
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北の映像ミュージアム、来館者続々

 私も理事の一人であるNPO法人・北の映像ミュージアムが10年間にわたる苦心惨憺の末、9月17日(土)に開館した「北の映像ミュージアム」(札幌市中央区北1西12、さっぽろ芸術文化の館1階=旧北海道厚生年金会館のホテル部分、011・522・7670)が好評だ。
 NPOのホームページ http://kitanoeizou.net/modules/official/index.php/main/top.html から「北の映像ミュージアムの日々」というスタッフが毎日更新しているブログにいっていただくと写真付きでわかるのだが、なんと! 全編小樽ロケの「Love Letter」で韓国や台湾に一躍、北海道ブームを巻き起こした張本人の岩井俊二監督や、帯広出身で函館ロケの「海炭市叙景」が好評だった熊切和嘉監督もさっそくいらっしゃっているではないか! 理事なのに、知らなかったなあ…。
 それに、ミュージアム内での出会いのあることあること。映画好き同士の尽きない会話が聞こえてきそうなのである。
 ということで、文化の秋、もちろん演劇も好きだけれど映画もお好きな方は、どうぞミュージアムへお越しを。
 またここで、演劇カンパニーにちょっとしたお願い、というか、ご相談。ミュージアムには視聴コーナーもあって、DVDやビデオを無料で見られるモニターブースが2台用意されている。現在は、ミスターこと鈴井貴之監督から寄贈された「man-hole」「river」「銀のエンゼル」をはじめ、黒澤明監督の札幌ロケ作品「白痴」、石原裕次郎主演の「赤いハンカチ」など北海道のロケ作品30本程度のソフトがあるのだが、よかったら、自分たちの舞台公演のDVDなどを寄贈していただきたいのだ。北海道の映像文化を私なりに拡大解釈して、北海道の演劇やダンスなどを記録した映像も来館者に見ていただきたいとの思いからである。もしかしたら、映画だけのファンだった人がその映像を見て、「この劇団の次回作を見てみたい」と、演劇にも興味を持たれるかもしれない。映画と演劇の懸け橋になりたいのである。
 ご主旨に賛同していただける方はミュージアムへご一報いただきたい。よろしくお願いします。
posted by Kato at 15:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする