2009年06月24日

きれいな鳥がとまるのを待っている

 intro(イトウワカナ主宰)の「きれいな鳥がとまるのを待っている」(作・演出イトウワカナ)は6月14日(日)、札幌・コンカリーニョで見た。introはこれまでコンカリ主催の「遊戯祭」参加やリーディング公演を行ってきており、単独での正式な舞台公演はこれが初めて。だが初めてとは思えない、何かキラリと光るものを感じさせた芝居だった。
 たくさん鳥を飼っている鳥博士(宮澤りえ蔵)の家に、自分のカナリアを預かってもらおうと訪れた烏丸よしこ(田中佐保子)が巻き込まれる不思議な出来事の数々を描いた物語。
 話としてはまだまだ膨らませることのできる題材とも思ったが、役者たちの抑制された動きと開放的な動きの対照が小気味よく、話の展開具合も、小粒だが何かキラリと光るものを感じさせる。ワカナ天性の演劇的素質の一端を垣間見た気がした舞台だった。舞台正面に立つ木の柱にいくつもの鳥籠を吊した舞台美術(プラン=川崎舞)も印象的。
 まだまだ若いワカナには、これからもどんどん作劇して成長していってほしい、それができる人なのだから、と期待大だ。
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訂正

前項で「コバルト兄さん」とあるのは「コバルトにいさん」の誤りでした。関係各位にお詫びして訂正いたします。
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2009年06月23日

プーチンの落日

 劇団イナダ組の「コバルト兄さん」(作・演イナダ)は4月18日(土)、TEAM NACSの前に札幌・コンカリーニョで見た。2008年12月の東京劇団フェスでグランプリを受賞した同作品の凱旋公演。ただし、この作品についてはシアターホリックの2007年10月に劇評を書いているので、そちらを参照していただきたい。主演のコバルト兄さんこと納谷真大以外は別キャストでの再演で、緊迫感のある良い芝居だった。
 今回は、6月20(土)、22(月)の両日、同じくコンカリで見たイナダ組の新作「プーチンの落日」(作・演出イナダ)について書く。昨今、社会問題にもなっている高齢者のぼけの問題について、イナダが思索を凝らした力作だ。
 舞台は、廃線になった旧鉄道駅「つきした」を改装した民宿。ここの元駅長で皆から今も「駅長」と呼ばれ親しまれている柳田寛治(納谷)と、その息子宏彦(武田晋)・かおる(山村素絵)夫妻が経営する簡素な民宿だ。
 ある日、寛治の妻静江(宮田碧)がくも膜下出血で入院する。と、時をほぼ同じくして寛治のぼけが進行していく。度重なる徘徊と物忘れ。とうとう寛治は、病院から静江を連れ出すまでになってしまう。
 この現実の一方で、劇中ではぼけた寛治の心象風景が丁寧に描かれる。寛治が「つきした」駅の一駅員だった青年時代(寛治=高田豊)。この駅を利用して看護学校に通う静江への一途な思いを告げられずにいる青年時代の自分に、やきもきする老人の寛治。金持ちのぼんぼん(佐藤慶太)に弄ばれ、傷ついた静江を思いやり、意を決してプロポーズした日、そして松前町への二人旅−。老いてぼけた寛治の心中には、過去のことが今まさに現実に進行中のこととして去来するのだった。この辺りの、過去と現在とを往来する描き方は実に巧みで、見る者を切ない気持ちにさせる。
 ただしイナダは、ぼけた老人に温かな眼差しを注ぎつつ、現実問題としての介護の大変さからも目をそらしてはいない。それは、宏彦とその妹・戸田山孝子(小島達子)が、病気を抱えた両親をどうすべきかについて、互いの意見を主張し合うという形で明確に描かれる。おそらくは芝居を見ている人たちにも、この状況は人ごとではない、いつかは自分たちも抱えなければならなくなるかもしれないと思わせるに十分な問題意識の提起である。
 これは、1999年に「アルツハイパーJ」、2008年に士別市朝日町の市民劇として「春日の原の駅のこと」(どちらも私は見ていないが)と、ぼけをテーマに過去2作品を作ってきたイナダの思索の深まりを示す問題意識の提起でもあると思う(本作は両作品をベースにしたものであるという。)。
 物語は、寛治に強く寄り添うでも突き放すでもなく、人生を深く生き、今やぼけが進行中である老人に温かな眼差しを注ぎつつ、現実の重みを投射する。コメディーであるが、ナンセンスではない。そして安易な回答は提示されない。問われているのは、観劇している一人一人なのだ。
 納谷が飄々として時に恍惚な寛治を熱演。コメディーの核としても舞台を背負って立っていた。武田、山村、それに民宿の番頭梅柴を演じた江田由紀浩が脇をしっかり締め、緊張感のある素晴らしいエンターテインメントに仕上がっていた。
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2009年06月18日

下荒井兄弟のスプリング、ハズ、カム。

 TEAM NACSの「下荒井兄弟のスプリング、ハズ、カム。」を4月18日(土)、札幌・道新ホールで見た。
 大泉洋が初めて脚本・演出を担当したコメディー。リーダー森崎博之による従来の、ちょっと肩に力が入った芝居とはまた違った、見る側としては肩の凝らない作劇だった。
 下荒井家の長男(森崎)、次男(音尾琢真)、三男(安田顕)、四男(大泉)、五男(戸次重幸)が巻き起こす、巻き込まれる騒動を、温かな視線で見守った舞台だった。
 ただし、長男の見合い話や五男の交際話を描いた前半部分と、長らく音信不通だった次男の突然の帰宅がもたらす災難を描いた後半部分がまったく分かれてしまっていたのは、初挑戦という大泉の「若書き」の部分でもあるだろう。
 それにしても、この芝居の札幌公演終了後、大泉の結婚と、戸次の井上和香との交際が発表、報道されたのには驚いた。まさかそこまでの見越しての「スプリング、ハズ、カム。」だったのだろうか。もしそうだとしたら、「大泉、やるなあ」といったところだが。
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恋人としては無理

 自分で言うのもなんだが、なんだか月間ブログになってしまったみたいだね。
 今回は、とある事情から、3月分はいったん飛び越えて、4月の芝居について書こうと思う。
 東京の劇団「柿喰う客」(中屋敷法仁代表)の「恋人としては無理」(作・演出中屋敷)を4月4日(土)、札幌・シアターZOOで見た。シアターZOOの提携公演「リゼット」に自薦で応募し選考通過、2009年度の「リゼット」第1弾として上演された、刺激的な実験精神に満ちた意欲作だった。
 本作品は2008年3月、ブザンソン(フランス)で行われた「フランシュ=コンテ国際学生演劇祭」で初演されたものだという。同年4月には東京で凱旋公演し、今回は全国5カ所を回るツアーの一環だ。
 パンフレットには「民衆から救世主と呼ばれている浮浪者と、彼に従い旅を続けるバックパッカーたちの物語」とある。実は「いえすくん」と呼ばれる「ナザレのイエス」と、その弟子たちの日々を描いた作品だ。それを、中屋敷はじめ男性3人、女性3人(札幌公演ではプラス弦巻啓太がゲスト出演)が、「上着」を着ている女なら「ぺとろ(ペトロ)」、「扇子」を持っている男なら「やっこさん(ヤコブ)」、「ぬいぐるみ」を持っている女なら「よはねっち(ヨハネ)」といったように、さまざまな役柄を、小道具を次々引き継いでいくことによって演じ合い、表現していく。
 せりふは速射砲のようにすさまじく早口で、時折ラップ調にリズミカルだったりする(いわゆる音響効果はなし)。舞台装置はない。
 上演時間は50分。ノリの良さも手伝って、本当にあっと言う間だった。そして、どこかにあるようでいて、なかなか見たことのない表現法だった。
 劇団のパンフレットには「『記号』に裏付けされた独特の演技法と、スピーディかつスタイリッシュな空間演出で、人間存在の不確かさを鮮やかに風刺する」とある。青森県出身の中屋敷はかつて弘前劇場(青森)にも出入りしていたとアフタートークで語っていたが、そこから何事かを感じ、弘前劇場とはまったく正反対の「反・現代口語演劇」を編み出したのだろうか。
 ところで私は、この見たこともない表現を目の当たりにしながら、なぜかサミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」を思い出していた。今で言う「ホームレス」のエストラゴンとヴラジーミルが、「ゴドー」という名しか分かっていない謎の存在(それは男か女か、人か、また神=ゴッドかも分からない)を待ちながら、日がな一日遊び続けるという不条理劇の古典であり金字塔だが、おそらく私の感慨は、「恋人としては無理」の「いえすくん」も、さまざまな人の噂に上りながら一度も舞台には登場しないことからの連想だろう。もしかしたら中屋敷には、「ゴドー」へのオマージュの気持ちも幾分あっての作劇だったかもしれない。本人に尋ねていないから分からないが。
 またフランス公演での評判はどうだったのかも、聞きたかったところだ。
 アフタートークで中屋敷は「また札幌で上演したい。どんどん呼んでください」と決意を語っていたが、私も、この劇団のほかのいろいろな作品を見てみたいと思っている。
posted by Kato at 19:24| Comment(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする