2008年03月17日

春の夜想曲(ノクターン)

TPS「春の夜想曲(ノクターン)〜菖蒲池の団欒〜」(作・演出・音楽斎藤歩)は3月16日、札幌・シアターZOOで。
 元札響首席チェリスト土田英順とピアニスト伊藤珠貴、それにTVドラマ「俺たちの旅」などで知られる女優金沢碧を迎えての公演である。
 札幌・中島公園の中にあるホテルが舞台。公園の中にある菖蒲池の浮き島に、季節限定で建てられるという別邸に泊まりに来た叔母(金沢)と姪(宮田圭子)の、そこはかとなく哀しみをたたえた対話の物語である。
 そこに、別邸での夕食の特別プログラムとして、支配人(永利靖)の父(土田)と姉(伊藤)による生演奏が加わり、ボーイたち(木村洋次、山本菜穂、佐藤健一)が絡む。
 とりたてて物語らしい物語、劇的な展開といったものなどはない。ただ、叔母が病気の初期を患っているらしいことが明かされ、それが物語に陰影を落としている。
 雰囲気の物語、雰囲気を感じさせる物語といってよいであろうか。際立った筋立てはなくても、芝居は立派に成立することの貴重な見本のような作品である。
 金沢の存在感が印象的だ。必ずしも近くではない、でも必ずややって来る死のイメージを背負っているように思われる。それを、姪には悟られず、観客には伝わるように演じているのがすごいのだ。
 土田、伊藤の生演奏は贅沢ものである。それだけで3000円の価値はあるというものだ。土田の役者ぶりもなかなかのものだと書いておこう。
 劇中の音楽は、ショパンとチャイコフスキーのノクターン2曲を除いて、斎藤が作曲したものだ。音楽に造詣のある斎藤の面目躍如たるところだろう。
 この芝居は韓国、沖縄、東京と巡演する。札幌の春の夜の静かな、本当に静かな佇まいの物語が今後どう深みを増し、成長していくか、楽しみである。
posted by Kato at 23:24| Comment(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月07日

I DOLL

3月7日に札幌・ブロックで見たRUSH(このあと1マスに!が2つ入る)の「I DOLL」(脚本・演出明逸人)は、見終えた後、不思議な感懐をもたらす作品だった。
 山間の村、乙梨村は嫁川を渡ってすぐにある。何年かに1度かの村祭り「カナガリ」の時期、1人の女医が診療所にやって来た。奇妙な絆で結束しているこの村で、とある事件が起きるまで、というのがチラシのあらすじ。
 村民たちは女医の診察は受けず、神様(明)と呼ばれる男の呪文で病気や怪我を治すのだ。
 だが、実はこの神様、女医の前に診療所にいた医師だった。そして、ある事件から、女医が「神様」を継ぐことになる…。
 つまりこれは、神様の代替わりの物語なのだ。
 と、こうした解釈をするまでにけっこう時間がかかった。
 芝居として展開が(特に前半部分)だるく、物語の動きが緩慢なのだ。警察官による少女監禁などの問題も複雑に絡んできており(このあたり、題名の由来かもしれない)、構成を練り直せば、けっこう面白い作品になると思うのだが。
posted by Kato at 23:56| Comment(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

エブリシング・マスト・ゴー

弦巻楽団「エブリシング・マスト・ゴー」(作・演出弦巻啓太)は3月2日、札幌・シアターZOOで。2006年の第1回札幌劇場祭大賞受賞で得た上演権で、東京・こまばアゴラ劇場でも上演した、弦巻お得意のシチュエーションコメディーだ。
 前年の参院選で大勝し、今また衆院選に政権奪取をかける野党民明党。その大事な投票日前夜、党幹事長の徳川典元(工藤康記)が、愛人の売れない女優槇野梢(知北梨沙)のマンションの一室で急死する。
 典元の主席秘書官久住禄郎(立川佳吾)は、二世議員の徳川奨悟(小野優)、典元の第二秘書官里中冬子(佐藤春陽菜)とともに、投票が終わるまで伏せておくにするが、徳島から訪ねて来た梢の兄の漁師潮(梅津学)、密会現場を押さえに来た典元の妻康枝(石川藍)、騒ぎの苦情を言いに来たマンション管理人(温水元)、さらに、実は梢が自分を売り込むため典元の愛人だとリークしている報道記者(谷藤夏紀)らが駆け付け、大混乱。
 そんな中、なんと典元が生き返る…といったストーリー。
 何と言っても、人の出し入れが忙しいテンポの良さが信条。潮の前では久住が梢のマネジャーのふりをするなど、複数の人間関係が幾層にも重なるが、丁寧な作りで分かりにくいことはないだろう。
 ただ、私は典元の死を、苦楽をともにしてきた妻康枝にも伏せようとしたのには、いささか疑問の念を抱いた。こうした場合、特に剛腕政治家の場合、せめて妻には本当のことを打ち明けるのではないかと思ったのだ。それとも現実世界では、その逆なのだろうか。小渕元首相の場合など、どうだったのだろう。
 そんなことが頭をよぎってしまい、うまく笑いの連鎖の中に入っていけなかったのも事実だった。
 それから全体に淡白な印象で、もう少し物語や役者個々に広がり、幅があればとも感じた。
 ただ幾層にもなる人間関係やエピソードの出し入れなど、やはり弦巻の芝居作りは巧みだとあらためて思ったのだった。
posted by Kato at 23:33| Comment(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

フルーツポンチどんぶり大往生。

ディリバレー・ダイバーズ(札幌)の第1回公演「フルーツポンチどんぶり大往生。」(脚本深浦佑太、演出谷原聖)は3月1日、札幌・マルチスペースFで。劇団についてのバックデータを何も持たずに、さしたる期待もせずに見に行ったのだが、言葉は悪いが、よい「拾い物」だった。
 あらすじはチラシによると、主人公・道地タクオ(深浦)はオタクである。彼と彼の親友・森モリゾウ(北山光次朗)は大人気アニメ「世紀末肉弾少女伝説 パンチちゃん。」(パンチ・ジャブ・ストレート=中村麻衣子、キック・ミドル=武田のぞみ)にもう夢中。だがそんなタクオの彼女・曽根ネネ(吉田美穂)は彼がオタクであることを露ほども知らないのであった。やがてある出来事から彼と彼女の運命は流転しそして…!、というもの。
 この作品は構造を説明した方が分かりやすいだろう。タクオを中心に、オタク側に森と林田キキ(篠田なつみ)がいて、ネネ側に平賀ヘイスケ(荒川創)がいて、互いにタクオの「取り合い」をする一方、タクオはタクオでオタクでありながら彼女もものにしておきたいという、都合の良い考え方の持ち主なのである。それが、両者の間でどうなるかが見どころである。
 パンフレットによると、北海学園大の演劇研究会の人たちが多いカンパニーのようだ。
 オタクと呼ばれる人たちの生態を面白おかしく描くとともに、広く現代若者気質といったものにも表現は通じていて、楽しく見られた。
 また超長いせりふを応酬する場面などがあって、これがなかなかにうまく、驚いた。
 舞台装置らしきものなどほとんどなく、資金的には昼に見た北海道舞台塾「正しい餃子の作り方」には到底かなわない芝居だが、こと演劇を表現する意味、心意気については、こちらの方が数段強く伝わってきた。
posted by Kato at 18:30| Comment(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

正しい餃子の作り方

北海道舞台塾「正しい餃子の作り方」(脚本・演出納谷真大、監修秦建日子)は3月1日、札幌・かでる2・7で。
 物語はパンフレットによると、20XX年、X月X日。その日の深夜0時に、餃子を作ったり食べたりすることを一切禁じる法律、餃子禁止法がいよいよ施行されることが決定。そんな中、東京の外れにある、かつて「チャオズクラブ」と呼ばれた場所で、最後の餃子パーティーが行われる予定になっていた。この「チャオズクラブ」、物凄く限られた人々にだけ餃子の神様と呼ばれた、知る人ぞ知る大学教授・瀧本時次郎(武田晋)が、お金で買えない餃子を食べる会として、自宅を改造して、結成した会員制餃子クラブであった。人生を包み隠さず包むため、やるせなくかけがえのない人間どもが、最後の餃子に挑む!、という内容。
 北海道舞台塾としては、ここ数年のものに比べて話が分かりやすかったのではないか、というのが正直な感想。でも、それ以上のものではない。
 せりふはあるし、動きもある。でも、ただそれだけ。「幅」がないというか、車のアクセルでいう「遊び」がないというか。
 余分で冗長な場面も散見され、芝居を見ることに伴う心地よい緊張感が少しも感じられなかった。
 中では、オーディションで選ばれたという津野幸子の少々上ずった演技が、芝居というものの本質に触れていたような気がして印象的だった。
 それにしても北海道舞台塾って、どうしてこうも「あれ」なんだろう。厳しい言い方をすれば、企画段階からのやり方を抜本的に考え直した方がよいのではないかとも思えてしまう。
 パンフレットのキャスト紹介は、役柄との対照がわかるものであってほしかった。
posted by Kato at 11:22| Comment(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月02日

腐食

 シアター・ラグ・203の水曜劇「腐食」(作・演出村松幹男)は2月27日、札幌・ラグリグラ劇場で。
 過去に鈴木亮介、田村一樹が出演した一人芝居に、作者である村松が初挑戦した。
 妻や取引先の社長とその妻、愛人ら13人を殺した連続殺人犯が独房で、教誨師に語るモノローグである。最後には、後悔の念がふつふつとわき起こるのだが、そこへいくまでの男の心情の吐露に、抑制された演技は説得力がある。
 19日を除き3月にも3公演が予定されている。犯罪者の心の闇が取り沙汰されている昨今、芝居でその一端に触れてみるのはいかがか。
posted by Kato at 10:18| Comment(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007リゼット大賞

北海道演劇財団が所有する劇場・シアターZ00では、自薦・他薦によるカンパニーの年間プログラムを組んで「リピートZOO(通称リゼット)」という企画公演を行っている。
 その2007年の大賞が決まったので、報告する。以下に選考経過をシアターZOO幹事である私が書いたものを再掲する。
 2007リゼット大賞を決めるシアターZOO幹事会は1月10日に演劇財団事務所で行われました。
 最初に、1月のムスタヒールアリス「バグダッドの夢」から12月の桂枝光・三遊亭竜楽落語二人会「ちりとてちん落語会」まで、計13のカンパニー、演目について、8人の幹事が1人2票の持ち票で無記名で投票。この結果、9月の劇団FICTION「石のうら」と11月の劇団青羽「足跡のなかで」が拮抗する形となり、この2作について討議をしました。
 劇団青羽「足跡のなかで」は、成長著しい韓国社会の裏側の一面を質の高い表現でよく描写している、との講評でした。
 一方、劇団FINCTION「石のうら」は、変態や障害者、家庭崩壊といった社会的底辺、マイナス面ととられる事物を描きながら、最後には大転換で観客にプラス思考を与える爽快感が高い評価を得ました。
そこで2作について決選投票をした結果、僅差で劇団FICTION「石のうら」が2007リゼット大賞に決定(2008年度の上演権獲得)しました。
 なお劇団FICTIONは2006リゼット大賞も受賞しており、2年連続受賞の快挙です。今後とも各カンパニーのご活躍を期待しています。
 2月15日に行われた授与式には劇団FICTIONの山下澄人氏(富良野塾出身)も東京から駆け付け、「今年9月には、期待を裏切るような作品をお見せしたい」と宣言した。
 リピートZOO、2009年度の募集はまだだが、多くの参加を待っています。
posted by Kato at 09:50| Comment(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

悲別

富良野GROUP「悲別」(作・演出倉本聰)は2月14日、札幌・道新ホールで。
 このブログの趣旨は、自分が感動したもの、人に薦めたいものを書くということだ。自分がたいして感動しなかった作品は、趣旨にも反するし、書くのが面倒だし気を使うし気が滅入る。この作品も、実はそうだ。でも終演後、いくらかの人がスタンディングオベーションをしていたのを思い出し、「そうかなあ」との疑問が膨らんできたので、そのことについて少しだけ書くことにする。
 あらすじはチラシなどによると(役者は分かる分だけ)、炭坑の町、悲別で。閉山が決まったその夜、組合長・野中平吉(久保隆徳)が自殺した。平吉は死の直前、炭坑夫だった息子のジンにこう語る。昔、30年前、かつての坑夫たちが、今では閉鎖された旧坑道の地下300bに、タイムカプセルを埋めた。その中には「希望」が入っている。いつかそのタイムカプセルを探してごらん、と。ジンとその仲間たちは、10数年後、20世紀最後の2000年の大晦日、再会して一緒にタイムカプセルを探そうと約束して、1人、また1人と悲別から去っていった。加山(水津聡)とサトケンは札幌へ出る。
 再会の日、すっかり変わり果て、死んだようになった悲別。約束の大晦日に集まったのは、ジンとブイの2人だけだった。2人は立入禁止の坑道に入り込む。そこで2人を追って取材に来た新聞記者の中村(久保の2役)と出会う。カプセルを探すうち、3人は突然の落盤に襲われ、坑内に閉じ込められてしまう。
 その頃、サトケンの殺人事件が発生。容疑者は加山だという…といった内容。
 劇中、ジョン・レノンの「イマジン」や「ラヴ」、風の「22歳の別れ」、井上陽水の「最後のニュース」、「アメイジング・グレイス」といった歌詞付きの音楽がほとんど間断なく流れる。
 私が思うに、要はそれらの音楽が主体で芝居は従に成り下がっていたのではないかということだ。芝居というより、音楽主体の歌謡ショー。それだけにせりふのない部分、例えば「イマジン」がかかる中での紗幕越しの盆踊り(「良かった昔」をイメージさせる場面)は説得力があり、美しい。
 舞台は老婆(森上千絵)の「昔は良かった」云々の昔語りが所々に挿入される。昔と今、地底と地上の対比。それらに象徴される、二元論としての物語が広がりを欠く。
 倉本聰といえば映画「駅 ステーション」の高倉健演ずる刑事のように、二元論では割り切れない、やり切れない心情を描くことを得意としていたはずだ。それがこの芝居では(善悪の、とまでは言わないが)二元論に終始していた。
 演劇鑑賞仲間の中には、この芝居自体が、「テーマ主義に出演者を埋没させるファシズムだ」と切って捨てる人もいた。
 だが、それは仕方ないのではないか。
 もともと富良野塾とは、倉本聰の倉本聰による倉本聰のための私塾。その傘下にある人たちは皆、大なり小なりファシズムの中にあることを自覚せねばならないのだから。
 そういうわけで、私は無批判にこの芝居というか歌謡ショーを受け入れることはできなかった。
posted by Kato at 09:37| Comment(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする