2007年10月07日

授業・日韓2作

 ウジェーヌ・イヨネスコ作の「授業」(翻訳安堂信也、木村光一)といえば、不条理劇の古典中の古典、定番中の定番。私も、教授役が故仲谷昇(東京・渋谷のいまはなきジャンジャン)、柄本明(札幌・シアターZOO)と2回見ている。
 今回、韓国からチョヨン劇場を迎え、国際演劇交流シリーズと銘打たれた企画が行われたので、早速行ってみた(10月6日、札幌・コンカリーニョ)。
 授業の内容をネタばれしないように書けば、登場人物は教授、女生徒、教授の下女の3人。女生徒が教授の家を訪ね、講義を受けているうちに、あることから悲劇が起きるというものだ。
 日本版はWATER33−39で、演出・清水友陽、教授に赤坂嘉謙、女生徒に中塚有里、下女に久々湊恵美。舞台に白テープが3方に張られ、それが、教授が講義するある部屋を表現している。
 芝居はストップウオッチを持った下女がカセットテープ(あるいはMDか。とにかく録音機材。中には、効果音や一部せりふまでが入っている)をかけるところから始まる。綿密に時間を計算してつくられた印象だ。
 そして、教授と女生徒の動きは大部分がかみ合わない一方、下女は上手のいすに座り、時折「授業」の戯曲のト書きを読みさえする。
 そうした様式化された舞台は、登場人物の運命的なもの、宿命的なものを感じさせる。また、かみ合わない教授と女生徒の動きはディスコミュニケーションを表現しているかのようだ。
 一方、韓国・チョヨン劇場版はイ・ドンジェ演出、教授にユン・ソギ、女生徒にムン・ソンミ、下女にイ・ファジン。舞台中央奥に十字架状の木が逆さまに掲げられているのが印象的だ。
 初めのうち日本語で話すからちょっと驚いた。演出のサービスだろう。芝居は私がかつて見た仲谷版、柄本版と似て、オーソドックスな感じ。教授の言葉の暴力性と狂気を前面に押し出した演出だ。
 ただ、教授があることをしでかした後、下女が教授の左腕にナチスのハーケンクロイツの腕章を巻いたのにはびっくりした。こういう解釈もあるのか。
 同じ戯曲を使ったにもかかわらず、上演時間は日本版が1時間、韓国版が45分というのにも、ちょっとした驚きを感じた。それと、舞台の冒頭、教授があるものを作っているらしい「トントントントン」という音が(それは舞台の幕開けをも象徴する)、韓国版にはないのが、寂しいと言えば寂しかった。
 ともかく大変よい、意義深い時を過ごした。また機会があれば、ぜひとも企画してほしいものだ。
posted by Kato at 23:24| Comment(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

石のうら

 怪作である。それが、ラストには快作になる。
 そうした作品もたまにはあるが、怪作から快作へここまで落差のある芝居も珍しい。私としては、傑作と呼んでも過言ではない。
 昨年、「『はえ』と云ふ名の店」で札幌・シアターZOO提携公演「リゼット」の優秀作品賞を受賞した、劇団FICTION(東京)の「石のうら」(作・演出山下澄人、9月28、29日、シアターZOO)である。
 舞台は関西の決して裕福ではないある町。かつて子どもに悪戯をしたことがあることがばれ、「変態」と蔑まれて町工場の職工タケシバ(大西康雄)がクビになる。ボロい長屋に住むタケシバのお隣さんは老人(山下)と、老人が拾ってきたという中年女シゲコ(山田一雄)とその連れ子で少々頭の弱いミルトン(竹内裕介)。老人の家では老人とシゲコ・ミルトンの喧嘩が絶えない。
 そんなある日、一帯が大地震に見舞われる。1995年1月17日早朝の阪神・淡路大震災である。
 ミルトン(考えてみると、「失楽園」の作者がミルトンという名である)はいち早く動物的勘で地震を察知、しかし老人とシゲコに伝える言葉を持たず1人で逃げる。
 シゲコは倒れてきた大きな物の下敷きになり瀕死の状態。そこに隣のタケシバが助けに来るが、老人と2人ではどうにもならない。タケシバが応援を頼みに行っている間、老人は不注意からシゲコの頭を蹴ってしまい、そのためシゲコは死ぬ。
 この後、老人は、戻ってきたミルトンを邪魔者扱いしながらテント生活、タケシバは「変態」がばれないで被災者支援に励む。そこへタケシバをクビにした町工場の社長(山田一雄)がやって来る。タケシバ、社長の依頼に応じて復職するか…と、ざっとこうした芝居。
 書いてみると、シリアスなようだが、これが大違い。関西弁独特の味わいこってりで、笑いどころ満載である。特にテント生活の老人が、ボランティアによる炊き出しを「またトン汁か」「関東風の味付けはしょっぱくて食えない」などと悪態をつくエゴのところなど、真骨頂である(こういうのをNHK・BSなんかでやったら面白いのになと思うのは不謹慎でしょうか)。
 芝居は、人間のどうしようもない愚かさやこっけいさ、切なさ、物悲しさを描き切っており過不足がない。
 昨年見た「はえ」ではベタな関西的表現がいまひとつ気に入らなかったが、今回の「石のうら」はそれが見事にはまっているのである。
 題名「石のうら」というのも、よく考えられたものだろう。ラスト、老人はあろうことか社長を説得し、タケシバだけでなく、ミルトン、それに自分もちゃっかりと町工場に就職してしまう。そして、聖書を心の支えにしていたシゲコの幽霊との賛美歌のデュエット。老人は崩壊した長屋の跡地にできたマンションに住むことを夢み、そこを長屋のように汚くすることを思いつくのだ。
 まことに見事な怪作であり、快作だ。私など、1回目見て、これはと2回目は妻を強引に誘って見たほどだった。
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太田省吾さんを悼む

 9月8日から11日まで、東京で芝居を見てきた。ケラリーノ・サンドロヴィッチ演出「狐狸狐狸ばなし」、新宿梁山泊「唐版・風の又三郎」(唐十郎作)、長塚圭史作・演出「ドラクル」、劇団宝船「最愛」、井上ひさし作、栗山民也演出「ロマンス」の5本。
 しかし上京した主眼は、芝居を見なかった10日・月曜日の太田省吾さんの献花・お別れの会にあったことは言うまでもない。
 太田さんは劇作・演出家。、7月13日、肺がんのために亡くなった。
 かつて「エア」の項で書いたので覚えておられる方もいるかもしれない。私の生涯のマイベスト、沈黙劇「水の駅」の、あの太田さんである。
 会場は青山のスパイラルホールで、私は午後4時ごろに献花した。お別れ会には200人ほどが出席。太田さんがかつて主宰した「転形劇場」(1988年に解散)の俳優大杉漣さんの音頭で献杯。続いて劇作家別役実さんや「転形」の品川徹さんらがお別れの言葉を述べた。
 太田さんとは20年以上前の大学生時代、1度だけ言葉を交わしたことがある。「転形」の当時の本拠地「T2スタジオ」(氷川台)で「水の駅」を何回目かに見る前だった(たしか私は3回見ている)。
 大学時代、郷里釧路のジャズ喫茶「ジスイズ」のマスター小林東さんから大学の先輩を紹介された縁で尺八を吹いていた私には、「沈黙」ということがテーマの1つになっていた(敬愛する故武満徹にも「音、沈黙と測り合えるほどに」の著作がある)。
 「太田さんにとって、沈黙とは何ですか」と私。
 太田さんは「人は自分が思っているほど言葉を発して(話しては)はいないのです。人が1日に言葉を発する(話す)時間を足していくと、けっこう話好きの人でも、1時間がせいぜいでしょう」という旨のお答えをされた。
 太田さんはそれこそ「沈思黙考」というタイプの方で、実に的確に分かりやすく、私に「沈黙」ということを説明してくれたのだ。
 私と太田さんとの接点らしきものといえば、それだけである。それだけで十分なのだった、私が太田さんへの献花をするために上京するには。
 太田さんの冥福を祈る。合掌。
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PLAYER

 一昨年、昨年と、2年連続でシアターホリック・マイベストに選出した札幌の劇団yhsが今年10周年を迎えたという。その記念公演第1弾が、9月7日に札幌・ブロックで見た「PLAYER」だ。
 旧作の短編コント7作によるもので、2作を除いては、リーダー南参の脚本・演出。10周年記念公演だからといって振りかぶらず、旧作の短編コントを持ってくるあたりは、いかにも人を食って南参らしい。
 7作とも一定水準を保って面白かったが、私には2年前の教文フェスティバルの「5人の演出家ワークショップ」で井上亮介が衝撃的なデビューを果たした「救急」が懐かしくて、それが再び見られたことがうれしかった(腹痛の女性が深夜、病院に来院するが、医師や看護婦たちは自分たちの合コンなどのことにばかりに関心があって、患者をかまわない)。
 さらに、ちょっぴり切ない「リラのホテル」も懐かしい。これは初演の時は分解されて上演されたはずの話で、ラストになって、ああ、あれが伏線だったんだと思ったものだった。
 yhsの皆さん、10周年おめでとう。そしてこれからも面白い芝居づくりをよろしく。
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2007年10月05日

トリスタン・イズー物語

 シアターキャンプ・イン・北海道については、昨年、深川市での様子をリポートしたことがある。それが最終の3年目を迎えた。
 そこで1つの形、演劇作品として示されたのが、音楽劇「トリスタン・イズー物語」(編ベディエ、翻訳佐藤輝夫、演出斎藤歩、音楽朝比奈尚行)だ。
 私が見たのは9月2日、札幌芸術の森野外ステージで。
 そう、これは久々に見る野外劇でもあった(4日の歌志内、6日の深川両市はホール内公演)。
 物語は「ロミオとジュリエット」の下敷きにもなったという、トリスタン(川崎勇人)とイズー(串山麻衣)という若者の少々身勝手な恋愛物語。これを、野外ステージの普段はオーケストラなどが使う屋根付きのステージに設えられた客席で見る。
 開幕。段々になった芝生の向こうの山から役者たち30人ほどが思い思いの楽器を手に手に、演奏しながらやって来る。物語の始まりだ。
 役者たちはステージの前まで来ると、半円形に陣取り、中央部分で演じ始める。物語は至極単純。それが、さまざまな楽器が駆使され、中でもジンギスカン鍋に焼き入れを施したジンギスカンパーカッション「ジンギスパー」は迫力十分。
 屋外のフィールドを最大限有効に使い、走り、歌った芝居は楽しく、ひと時初秋の寒さを忘れさせてくれた。
 シアターキャンプは来年度は休み、再来年度から復活の動きがあるかに聞く。参加する人たちには大変なことだが、楽しみに待っていよう。
posted by Kato at 23:42| Comment(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

コバルトにいさん

 ああ、また文字化けかよう。
 今回は、前者はIとsの間に、後者はCanとtの間に、それぞれアポストロフィが入ります。中学生の英語ですね。題名も「ユー・キャント・ハリー・ラブ」です。
 さて劇団イナダ組「コバルトにいさん」(作・演出イナダ)は9月1日、札幌市教育文化会館で見た。教文演劇フェスティバル2007の参加作品である。
 物語はパンフレットによると、公園の片隅の段ボールハウスに1人のホームレスの男。「コバルトさん」と呼ばれるこの男(納谷真大)は、ダッチワイフに「アサコ」と名付け、人間の女として生活を共にしていた。そこにある日、1人の中年男(野村大)が転がり込み、コバルト、アサコとの奇妙な3人暮らしが始まった。しかしある日を境に、男の身に奇妙な出来事が起こり始めるようになる。それをきっかけに、アサコの存在に疑問を持ち始める男。兄を探す女(山村素絵)、行方不明の女を探す男(川井”J”竜輔)の出現などから、物語は意外な方向へと展開していく。男が体験した不思議な出来事の裏に隠された真実とは一体何なのか? やがてそれは、一人の女(小島達子)の失踪事件へと繋がって行く…という内容。
 イナダも新境地に達したかなと思った芝居だ。
 4月29日に札幌・コンカリーニョで見た「第2柿沼特攻隊」も、御得意の群像劇でそれはそれで面白かったのだが、今回の「コバルトにいさん」は謎を謎のままに終わらせながらも仕立てがうまく、見終えて不思議な感触、余韻を残した芝居だった。
 納谷がホームレスの男を巧みに造形して好演。小島はさすがの演技力を発揮していた。ほかに江田由紀浩が出演。
 それに今回はロードツアーとして旗揚げ15年目にして初の道外公演、福岡イムズホールでも上演した(9月22日)。果たして九州での評価はどうであったろう。
posted by Kato at 22:59| Comment(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする