2006年04月23日

3本のシェイクスピア

 シェイクスピアを2日間で計3本見た。東京でもなかなかできないことではあろう。
 1本目はロンリー・シェイクスピア・ドラマ、略してLSD。それは劇作家であり、女優、芸人である「楠美津香のひとりシェイクスピア」。小田島雄志氏の翻訳を参考に、2000年からシェイクスピアの全作をひとり芝居で語り倒すというプロジェクトである。今回は超訳「ヴェニスの商人」だった(21日、札幌・シアターZOO)。
 事前に黒板を使った人物相関図の説明があり、その上に各人物の特徴を踏まえて日本人にも覚えやすいように演じるので、実に分かりやすい。語りは講談調でパワフルそのもの。力技でぐぐぐいっと見せつける感じだ。
 言葉遊びも巧み。考えてみると、シェイクスピアそのものが言葉遊びの達人なのだから(翻訳本に当たってみると、翻訳者の苦労が分かる)、楠の語りも「正調」と言えるのかもしれない。今回は物語の背景にキリスト教とユダヤ教の対立があったこともくっきりと分かり、勉強にもなった。
 ただ、私は1月の超訳「ハムレット」(シアターZOO)の時もそうだったが、感動するというよりも感心してしまう。意味を考え過ぎているのかもしれない。もっと流れに身を任せた方がよいのかもしれない。
 楠の札幌公演はこの後、7月14・15日にシアターZOOで超訳「十二夜」、一人コント「東京美人八景〜北国旅情編Vol.2」が同25日に新装なるコンカリーニョで予定されている。
 22日は2つの若手劇団による「ロミオとジュリエット」の競演。
 まず苗穂WEST SIDE版(演劇専用小劇場ブロック)。川尻恵太の脚本・演出である。
 ロミオ(小林エレキ)とジュリエット(今井香織)が犬猿の仲だというのが突拍子もない新機軸であろう。しかもおのおの弟ヒデ(鶴岡浩明)と妹ロザンナ(伊藤若菜)というのがいて、こちらは相思相愛。モンタギュー家とキャピュレット家も交流があり、ロミオとジュリエットの対立が両家の目下の悩みの種という訳だ。
 だが、「黒が白に、白が黒に見えるようになる」という薬をジュリエットのばあや(藤谷真由美)が使うことにより、二人は晴れて恋仲に。あとはほぼ原作通りの展開となり、古典を古典として楽しむこともできる内容だ。ところどころで神父(斉藤雅彰)が舞台回し役となっていたのも気が利いていた。
 次にAND版(ターミナルプラザことにパトス)。亀井健の脚本・演出である。
 不動産会社社員、ロミオこと青木武(三浦徹也)は独り暮らしの部屋を探して来店した伊藤三月(小原綾子)と恋に落ちる。だが、三月はかつて、現在服役中の武の父武雄(山田マサル)に乱暴されたとされる被害者だった…という現代版。
 ANDならではのサイケデリックな色調をふんだんに使い、ダンスも取り入れ、ニューアメリカンシネマ調の「ウエストサイドストーリー」(これも原作は「ロミオとジュリエット」)のようだ。
 こちらはラストは原作とは違う独自のもの。これまで比較的どろどろとした湿り気の多い印象が強かった感のあるANDにしては、落ち着いた味わいの終幕であった。
 同一演目の競作とは、それぞれの個性や想像力を比較して見られて楽しい試み。これからも挑戦してほしいと思う。
posted by Kato at 00:32| Comment(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月18日

おかえりなさい、ども

前に送った原稿が文字化けしたようなので、再度送ることにする。ローマ数字の3と4を算用数字に変えたものである。
 「ドラマシアターども4の門出を祝う会」(15日、江別市2の2の7の1)というものに行って来た。
 「ドラマシアターども」というのは、安念智康・優子夫妻が1981年7月から江別の地で行ってきた劇団であり、劇場である(「ども」というのは安念さんのニックネーム)。
 それが、借りていた土地の返却、劇場取り壊し、引っ越し、新設、土地の返却…ということを繰り返してきて、今度が4度目の生まれ変わりになるという、その祝いの会である。
 場所はJR江別駅に近い(徒歩5分ほど)住宅街の一角(札幌からだと駅を出て右へ右へと行くと着く)。大正11年(1924年)建築の元郵便局だというから、お年寄りだが、なかなか頑丈そうな骨格の建物である。
 江別市高砂町にあった「ども3」を訪れた経験のある方もいらっしゃると思う、それより数段頑丈そうに出来ており、歴史を感じさせる佇まいでもある。
 劇場空間としての印象は「3」に比べて、乾いた感じがする。「3」も味わいがあったが、今度の方が天井も高く、劇場らしい劇場になっていると言えそうだ。どもさんご夫妻と、どもさんの意気に感じて助力した人たちの汗と魂のこもった劇場のスタートである。どもさん自身も、「今度は(借家ではなく)すべて自分のもの。じっくり、いい芝居が作りたい」と抱負を語るのであった。
 門出を祝う会には、遠く紋別市からの来訪もあり、200人以上の人で立すいの余地がないほど。久方ぶりに会う知り合いも数多くいて、類は友を呼ぶ、どもも友を呼ぶの感を強くした夜であった。
 江別では、この「ども4」のすぐそばに昨年、古い倉庫を活用した「外輪船」というアートスペースも出来ており、注目の場所(大麻、野幌とは違って、「江別」には古い建物が多く、小樽の雰囲気に似ている)。果たしてどんな創造がなされてゆくのか、楽しみにしたい。
posted by Kato at 23:29| 劇評

title : サンキューマウンテン
 チラシを見る限り、爆弾解体屋の物語かと思っていたが、実際にできたものはと見てみるとまったくの大違い(「謝ります。宣伝用チラシの裏面に書いてあるお話は修正を加えていくうちに跡形もなくなりまして爆弾のバの字すら出てきません。ほんとうにごめんなさい」とパンフレットに記載あり)。でもそれがなかなかに小粋な芝居。フルブリーチの「サンキューマウンテン」(16日、札幌・演劇専用小劇場ブロック=中央区北3東5、岩佐ビル1階)に、そんな印象を持った。劇団代表かとうしゅうやの作・演出だ。
 コンビニでアルバイトしている、かとうしゅうや(本人)。ある日突然映画で身を立てたくなり、コンビニの店長(中島司)が開発したロボット(赤沼政文)を主人公にした映画を撮り始める。
 あらすじといえばこれだけの上演時間1時間。これに坂本祐以、植松尚規、石坂久志が友人や乙姫、狛犬といったさまざまな役で絡む。
 詩的イメージの高い作劇だ。すべてがめくるめく夢の集合体のように、場面場面がつくられていく。見ているうちに、私はつげ義春の漫画(「ねじ式」など)の世界に出会っているかのような思いをした。
 物語がほとんどないに等しいほどだから、演出で見せるタイプの芝居。それが、狛犬たちの場面や竜宮城での生物たちの舞の場面など、適度に抑制が効いていて、なかなかすがすがしい動きをしているとも思った。
 この日、私は「ども」パーティーでの酒が抜けきれないで具合がいい状態とは言えなかったのだが、途中からそのことも気にならなくなるほど、引き込まれてみていたことを付け加えよう。
 願わくはより物語性のある芝居で、同様の演出による作劇を見てみたいものだ。
 16日はこれより前にジー・ウイルス「マリアが逝った朝」を観劇。ジー・ウイルスとしての活動はこれにて終了し、11月に「ゴールデンキラーズ」と名前を変え、活動していく旨、リーダー武田晋の話があった。それにしても満員で熱気にあふれた会場であった。
posted by Kato at 23:29| Comment(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

サンキューマウンテン

 チラシを見る限り、爆弾解体屋の物語かと思っていたが、実際にできたものはと見てみるとまったくの大違い(「謝ります。宣伝用チラシの裏面に書いてあるお話は修正を加えていくうちに跡形もなくなりまして爆弾のバの字すら出てきません。ほんとうにごめんなさい」とパンフレットに記載あり)。でもそれがなかなかに小粋な芝居。フルブリーチの「サンキューマウンテン」(16日、札幌・演劇専用小劇場ブロック=中央区北3東5、岩佐ビル1階)に、そんな印象を持った。劇団代表かとうしゅうやの作・演出だ。
 コンビニでアルバイトしている、かとうしゅうや(本人)。ある日突然映画で身を立てたくなり、コンビニの店長(中島司)が開発したロボット(赤沼政文)を主人公にした映画を撮り始める。
 あらすじといえばこれだけの上演時間1時間。これに坂本祐以、植松尚規、石坂久志が友人や乙姫、狛犬といったさまざまな役で絡む。
 詩的イメージの高い作劇だ。すべてがめくるめく夢の集合体のように、場面場面がつくられていく。見ているうちに、私はつげ義春の漫画(「ねじ式」など)の世界に出会っているかのような思いをした。
 物語がほとんどないに等しいほどだから、演出で見せるタイプの芝居。それが、狛犬たちの場面や竜宮城での生物たちの舞の場面など、適度に抑制が効いていて、なかなかすがすがしい動きをしているとも思った。
 この日、私は「ども」パーティーでの酒が抜けきれないで具合がいい状態とは言えなかったのだが、途中からそのことも気にならなくなるほど、引き込まれてみていたことを付け加えよう。
 願わくはより物語性のある芝居で、同様の演出による作劇を見てみたいものだ。
 16日はこれより前にジー・ウイルス「マリアが逝った朝」を観劇。ジー・ウイルスとしての活動はこれにて終了し、11月に「ゴールデンキラーズ」と名前を変え、活動していく旨、リーダー武田晋の話があった。それにしても満員で熱気にあふれた会場であった。
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2006年04月10日

おめでとう橋口&千年

 最近、うれしいことに気づいた。ヤフーなどの検索サイトで「シアターホリック」と引くと、高知県にある劇団の項目が先に出てきてこのブログは後ろの方なのだが、「演劇病」と引くと、このブログがトップなのである。あの順番はどういう仕組みでああなのかはわからないが、そういうことなのであった。わりと見安いところでうれしさをかみしめている私である。
 閑話休題。橋口&千年である。札幌小劇場界の女王様こと橋口幸絵が日本演出者協会主催の「若手演出家コンクール2005」で最優秀賞及び観客賞を受賞したことは、3月12日「職員室の午後」の欄で触れた。さらに橋口が代表を務める実力派「劇団千年王國」の昨年の公演「SL」(再演)が05年度札幌市民芸術祭の奨励賞を受賞したとのことで、その記念祝賀会が8日、すすきののとあるバーを借り切って行われ、私も招かれた。
 会場には40人以上もいただろうか、小劇場関係者はもちろんのこと、日本舞踊の師匠や絵師、カメラマンなど、これまで橋口がさまざまなものを吸収してきた人たちが渦を巻き、喜びの言葉に溢れていた。
 この「SL」という作品は、私もひとかたならぬ思いがある佳作である。というのは、2003年8月の初演を見た私の劇評(北海道新聞03年8月9日掲載)に触発されるものがあって再演を練り直したと、再演終了後、橋口本人から聞いたからでもある。
 この言葉は、劇評を書く身にとってなんとうれしいことだろう。
 演劇を創造する側と、見て批評する側とのよい意味での拮抗、出会いといったものを、この作品を通じて私は経験することができたのだ。
 私の拙い文章が、創造者がさらなる鉱脈を探り出すのに一役買ったというのは、本当にうれしいことであった。
 この祝賀会では、私自身にもうれしいことがあった。千年王國の役者の一人である柴田智之から、彼が座長を務めるユニット・捨犬ワルツの「永久機関物語」(02年10月)についての劇評(北海道新聞02年11月13日掲載)を面と向かって喜ばれたことである。もう3年半も前のことであるが、彼の母親が大切にファイルしてくれていたのだと、柴田は喜色満面に話してくれた。
 言葉は使い方を誤ると大変なことになるものだけれど、これからも言葉を大切に劇評を書いていこう。
 さて、橋口の受賞にあたっての思いは「劇団千年王國」のホームページにとても真摯に書かれているので、それを読まれたい。
 私は締めの乾杯のあいさつを頼まれたので、「北海道で演劇といえば『チーム・ナックス』」とともすればひとくくりにされてしまいかねない状況の中、快挙である、地道に芝居でやっていく、やっていけるという状況が北海道でも生まれてほしいし、その端緒になるのではないか、などと偉そうにも話してしまった。
 受賞作「古事記」は女優榮田佳子と民族楽器奏者福井岳郎氏とのコラボレーション。さわりだけ披露されたが、なかなかに見る側の想像力を促す渾身の作の感がした。年内には札幌でも上演されるようである。楽しみにしていよう。いやあ、この文章の中に何度「うれしい」と書いたことか。
posted by Kato at 23:01| Comment(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月09日

夜の行進

 「私はお母さんの生まれ変わりです」その女性はこう言って佐嶋家の一員となった。亡き者と残された者。そのはざまで翻弄される子供たち。果たして家族に平和は訪れるのだろうか。(チラシ「物語」より)

 「夜の行進」は「渡辺源四郎商店」(青森県弘前市)という不思議な名前のプロデュースユニットの開店公演として札幌・シアターZOOで上演された(9日)。作・演出は店主である畑澤聖悟。現役の高校教師であり、演劇部顧問である。2005年には日本劇作家大会短編戯曲コンクールで最優秀賞を受賞した実力派。この物語も、生きる者の痛みに優しい眼差しを注いだ佳品である。
 舞台は青森県内に住むカミサマ遠山みち=72=(久保りつ)宅の茶の間。「カミサマ」というのは竜宮様のお告げにより人々の悩みを解決する役割を果たして崇められる者であり、亡き人の「仏おろし」をして口寄せするイタコとはちょっと別の存在だ。
 最近腎臓の具合が悪いという古くからの知人佐嶋金治郎=78=(宮越昭司)が、そろそろ亡妻さと子=享年38=の元へ行きたいというのを聞き、みちはまだまだ生きてもらわねばと一計を案ずる。それは、金治郎を介護するヘルパー村上沙織=32=(工藤由佳子)に、さと子の生まれ変わりであるとひと芝居打たせ、生きる意欲を促すことであった。
 それはそれで成功するのだが、東京から帰郷した金治郎の長女しのぶ=38=(森内美由紀)は真意を知らず、沙織が財産目当てではないかと疑う。一方、沙織の夫武史=34=(佐藤誠)は、妻が金治郎宅に泊まりこんでまで介護し始めるに及び、沙織と、中学教諭をしている金治郎の長男明=32=(藤本英円)との関係を疑う。
 沙織夫婦は、むしろ武史の方にかつて女性関係があったらしくうまくいっておらず、互いにわだかまりを抱いている様子。そんな折、とうとう沙織は本気で金治郎と入籍したいと言い出す。
 以上のあらすじが終始一貫、みち宅の茶の間で起きることだけで描かれる。こうして書き出してみると、あらためて思うのだが、人の出し入れがうまく、目の前で演じられている以外のこと、役者により演じられていない時間と場所への観客の想像力を促すことに卓越している。
 この感覚、どこか懐かしさを感じたのだが、それは、北海道演劇財団付属劇団TPS(シアタープロジェクトさっぽろ)の「冬のバイエル」(斎藤歩作・演出)を見た時の、物語を抑制した末の観客の想像力への信頼と同様であったと思う。
 せりふは青森弁(弘前弁でもあろうか)。慣れないと道産子には少々わかりずらいところもあったが、青森市の浅虫温泉に親友のいる私としては、とても親しい気がしたものである。
 さて、沙織が入籍したいと言い出した場面はここ一番の緊迫感を伴って見ごたえがあった。みちの茶の間に、みちと金治郎、しのぶ、明、沙織が同席する。金治郎から後付けで聞かされた「家族の思い出」を沙織が語って新しい家族への希望を明かす。
 と、しのぶが、実は金治郎には当時(それこそ)浅虫に女がいて、明を産むと同時に亡くなった母さと子の病床にも現れなかった記憶の痛みをぶちまける。積年の後悔を述べ、再び生きる意欲を失いそうな金治郎。その時、突然、みちが亡妻さと子(みちの親友でもあった)の「仏おろし」をして場を浄化するのである。果たしてみちに本当に仏がおりたのか否か、みち一流のひと芝居であったか、それは分からないが、見事な畳掛けであった。
 物語の本筋には直接かかわりないが、カミサマみちの弟子安部耕平=28=(萱森由介)が、本人は一生懸命やっているつもりでも、端から見ると愚鈍そうな存在で、物語のアクセントになっていた。
 と、ここまで書いて大切なことを忘れていた。金治郎役の宮越は実際に1927年生まれ、みち役の久保は34年生まれである。こうした存在を大切に舞台に上げられるということがいかに貴重なものか、物語の幅を広げられるか、如実に示したのが今回の「夜の行進」ではないか。
 青森言葉の言霊(ことだま)の力とともに、年輪を刻んだ人の存在感をあらためて重いと感じ入った舞台であった。お見事。
 さて、毎回読んでくださっている方はお気づきと思うが、今回から時に応じて文体を変えることにした。「です・ます」調に加えて「だ・である」調も、という具合にである。かねて批評を「です・ます」で書くと、どこか慇懃(いんぎん)無礼であると感じていた。文体は変えても、見て感じたことを正直に書く姿勢は変わらない。これからもよろしくお願いします。
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2006年04月02日

捨てなれた猫

 「捨てなれた猫」は札幌の劇団STEPが佐藤俊之作・演出で、札幌・ターミナルプラザことにパトス(西区の地下鉄東西線琴似駅に隣接してあります)で上演しました(4月2日)。「捨てなれた」であって、「捨てられた」でも「捨てられなれた」でもありません。主人公の雌猫が何かを「捨て」、「成れた」のだと、佐藤はパンフレットのあいさつで説明しています。
 舞台は桃井薫(佐藤)、桃子(菊地由恵)夫婦の動物病院。朝から雌猫(es)、雄猫(神山元気)、犬(谷英行)、猿(成田アヤ)、馬(福島孝啓)、鳥(丸山さゆり、1日は佐々木裕加)、それに宇宙人(館洞さゆり)らが病院にやって来る。皆、人に捨てられたり、殺されかねないところを免れたりというように、体にというより心に病を抱えて。さて、夫婦に動物たちの病気は治せるか、動物たちの行く末は…というのがあらすじです。
 正直、各々の動物たちが病院にやって来て夫婦と会話を交わす場面は演技が少々硬いうえに野暮ったい感じがして、なじめませんでした。
 でも中盤、ピアノ(日小田直美)、バイオリン(高杉奈梨子)の生演奏を交えての明るい歌と踊りのシーンから芝居が息づき始めたと思います。その後、それぞれに別々の道を歩み始める動物たちのせりふにピアノ演奏が重なる場面も、しっとりとした情感が漂いました。
 見終えて思ったのは、全体を音楽劇として構成すればよかったのではないかということです。歌と踊りをもっと随所に入れて…などと想像すると、物語としてより可能性が開けるのではないかと思いました。
 楽器演奏のほかに、この芝居では会場の劇場ロビーで、アニマルフォトジャーナリスト児玉小枝の写真展「ラストポートレート〜この世に生を受けて」が併行開催されました。人に捨てられ、保健所の管理下に置かれた結果、死を待つしかない犬や猫たちの肖像写真群です。
 劇のテーマの1つを見る人に多角的に訴える手立てとして、有効だったと思います。
posted by Kato at 22:18| Comment(0) | 劇評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする